×

世界のヒバクシャ

3. 政府監視におびえる村人

第4章: インド・マレーシア・韓国
第1部: 核と貧困―インド原子力開発の影

放射能汚染でパニック

 タラプール核施設の取材を終えて、私たちはインド第4の都市マドラスの南70キロ、コバルトブルーに輝くベンガル湾に面したカルパカム核施設へ向かった。途中で道に迷い、通りがかりの男性に「カルパカム核施設の隣村へはどう行ったらいいのかね?」と尋ねると「わしは村の者だが…」と答えが返ってきた。

 自らの取材と通訳を兼ねて同行してくれた「インディア・ウィーク」紙のA・S・パンニーセルバン記者(29)は、相手が目的の村の住人だと分かると車から降り、この地方のタミール語で話し込んだ。

 広大なカルパカム核施設は、1983年と86年に営業運転を始めたマドラス原発1、2号機を中心に、高速増殖実験炉を使って最新の原子炉技術を開発するインディラ・ガンジー原子力研究センターを併設している。

 4年前の1986年、ここで働く従業員とその家族が住むコロニーで、放射能に汚染された野菜、果物、米、家具を大量に焼却処分する事件があったと聞いていた。核燃料棒運搬用トラックを使って日用品をコロニーに運び込み、汚染に気づいた住民がパニックに陥ったのだ。

 パンニーセルバン記者は、その事件を追い、当局のずさんな放射性物質管理体制を告発した。しかし、彼自身、現場の村を訪ねるのは今回が初めてである。

 途中で出会った漁民のSさん(39)は、人目を避けるため、私たちを木陰に誘った。日焼けした顔が、年齢よりはるかに老けて見えた。

 「わしらは当局から外国人や見知らぬ者と話しちゃいかんと注意を受けてる」。周りを気にしながらSさんは言い、さらに続けた。「原発のことはわしらには分からん。でも運転が止まることはよくある。排水の量や海水の温度で見当がつくんだ。2号機はもう1年以上も止まってるよ」

 インドでは現在6基の原発が稼働中である。このうち最も新しいマドラス1、2号機は、設計から施工まですべてインド人によって完成させた初の国産原発だ。

写真の撮影も拒む

 原発による被害について、彼は最後まで話そうとしなかった。新聞に名前が出ることも、写真を撮ることも拒んだ。そこから1キロ余り離れた彼の村への案内を請うたが「もし見つかったら何をされるか分からない」と、怯えたように言った。

怯えているのはSさんだけではない。パンニーセルバン記者の大学時代の友人の科学者も同じ反応をみせた。1983年からカルパカム核施設で環境アセスメントを担当する彼をコロニーに訪ねた時のことだ。

 「日本人の記者だって?」と血相を変え、科学者は友人をドアから押し出すようにして言った。「会ったことを知られただけでクビだよ。すぐ帰ってくれ」。声に怒りと恐怖がこもっていた。

 「給料はいいし、黙ってさえいれば、将来が約束されてるんだよ」。閉じられたドアの外でパンニーセルバン記者がつぶやいた。

 人口900人の漁村、コッキラメデ村は、原発の建設が始まった20年前に「インド発展のため」と強制移住させられた。その時あてがわれたのは、小屋のようなコンクリートの家だけで、学校も病院もなく、マーケットまで4キロも離れている。

 村はずれにある高い壁が核施設との境界になっており、壁のそばの見張り台が人を威圧する。見張り番の姿が消えるのを見計らって、「立ち入り禁止」の看板の向こうの原発にカメラを向けた。

 「フォト、フォト」と人なつこい子供たちが、口々に叫びながら看板の前に集まった。好奇心に満ちた大きな目。看板の字が読めない子供たちは、無邪気そのものだった。