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世界のヒバクシャ

4. ブキメラー村の白血病

第4章: インド・マレーシア・韓国
第2部: トリウム汚染―マレーシアの日系企業

脱毛 まるで少年

 玄関を入るとそこは居間で、15ワットの蛍光灯が、ダンボール箱が雑然と並ぶ部屋を鈍く照らす。

 「いらっしゃい」。にこにこしながら奥の部屋から現れた子供が言った。薄暗い部屋が急に明るくなったような快活な声と表情に、私たちは救われた思いで握手を交わした。

 小学6年生のラム・ライ・クアンちゃん(11)は、放射線治療ですっかり髪が抜けている。一瞬、少年と見誤ったが、首のネックレスと左足首のアンクレットで少女と分かった。

 彼女が「急性リンパ性白血病」と診断されたのは、1989年1月のことだった。「前の年の11月に背中に痛みを感じ始めて、歩けなくなったの」。ライ・クアンちゃんは自分で病気の説明を始めた。ブキメラー村の診療所で診てもらった後、直ちにイポー総合病院へ送られ、3カ月半の入院治療を受けた。回復後は、通院しながら学校へ通った。しかし、再び症状が悪化して8月末から10月半ばまで、首都クアラルンプールの総合病院で治療を続けた。

 「娘も私も家に帰ったばかりなのよ」と、1歳の初孫をひざに抱いた母親のヒュー・チャイ・タイさん(48)がそばから声をかけた。看病疲れも手伝ってか、ひどくやつれて見える。

 ライ・クアンちゃんが自分の病気を白血病と知ったのは再入院してからだった。「難しい病気らしいけど、早く治療をしたから大丈夫だって。学校へも行けるようになったし」。彼女はどこまでも屈託がなかった。

背骨が痛み働けず

 エイシアン・レアアース(ARE)社から約500メートルの彼女の家より、さらに北へ100メートルほど行くと、同じ急性リンパ性白血病で治療を続ける高宝安(コー・ポー・オン)さん(19)の家がある。

 やせ細った体と青白い顔からは青年らしい若々しさはうかがえない。高さんが黄疸症状になってイポー総合病院へ運ばれ、白血病と診断されたのは1988年10月、ブキメラー村の小さな靴工場で働き始めた直後だった。

 「白血病と分かった時は、ショックだった。どうしてこんな病気になったのかと自分に無性に腹が立って…」と高さんは言った。退院後も、週1回の病院通いを続けたが、背骨が痛んで、長く仕事ができない。定職にも就けず、体調のいい時だけ知人宅で靴作りを手伝っている。

 「白血球が減って免疫の働きが弱っているから、ブキメラー村から早く出た方がいいって医者は言うけど、経済力がないから無理なんだ」と、高さんは力なく言った。

 もう1人、工場からわずか100メートル余りの所に住む5歳の坊やは、クアラルンプールの大学病院で1989年3月、急性リンパ性白血病と診断され、今も入院治療が続く。

 村の人口は7千人で、その村にわずか1年で3人の白血病患者が出た。過去の5年間は、1人もいなかった。マレーシアの白血病の年平均発病率は10万人に3人。この1年だけを単純に比べると、国内平均の14倍に達する。

 「みんなから、どうして髪が抜けたのって聞かれるの。『放射線のせいよ』って説明したら、逃げて行く友達もいたわ」と話すライ・クアンちゃんは3人姉妹の末っ子で、父親は彼女が3歳の時に事故死した。「先生になりたい」と言うライ・クアンちゃんのそばで、母親のヒューさんは「私に何の希望を持てと言うんですか」と涙ぐんだ。

 ライ・クアンちゃんも高さんも、病気はAREのトリウムのせいだと信じている。「補償金をもらったところで病気が治るわけではない。それより早く工場を閉鎖してほしい」と、高さんは厳しい口調で言った。