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世界のヒバクシャ

1.「無脳児を2度流産」に衝撃

第4章: インド・マレーシア・韓国
第3部: 放射能不安―韓国「核」発電所

 「漢江の奇跡」。首都ソウルを貫流する川の名に託し、驚異の経済成長を遂げた韓国は1988年、電力の46.9パーセントを原子力発電で賄った。この世界第3位の「原発大国」で今、ヘク・パル・チョンソ(核発電所)の健康への影響をめぐる論議が高まっている。民主化路線を背景に原発への不安が噴き出したのである。作業員らの放射能汚染を契機に、韓国民は「核」の本質を問い始めた。

防護服着ずに働く

 鈍く光る黒松、轟音(ごうおん)をたててすれ違う大型トラックを横目に車を走らせる。ここは全羅南道の道庁所在地、光州から約60キロ。山あいの道を抜けると、軒を寄せ合った農家の向こうには、海に面して巨大なドームがそびえ立つ。

 霊光1、2号機は韓国最大の95万キロワット級原発である。金網越しに隣接する霊光郡弘農邑(町)城山里(里は最小の行政単位)には約3千人が住む。原発の影響論争の発火点になったのは、1989年夏、このひなびた里で起きた「事件」だった。

 「霊光原発作業員の妻が2度、無脳児を流産」。7月29日付の新聞にこんな記事が載って以来、金益成(キム・イクサン)さん(31)は放射能への不安と、「事件」の反響にやつれ果てた。

 彼は私たちに「良心に誓ってうそではない。放射線防護服を着ず、言われるまま、あの中で働いたのは本当なんだ」と言ってひざを抱え、しばらく押し黙った。政府、韓国電力公社に弓を引いたという精神的重圧と度重なる取材、調査、それに「奇形児の父」のうわさが彼に重くのしかかる。

頭痛・目まい続く

 地元農家の5男で、中学卒業後、牛の飼育を手伝っていた金さんが、韓電系列の下請け会社の臨時補助作業員に応募したのは、長女誕生直後の1987年3月だった。2号機の放射線管理区域内にある1階ホウ素混合タンク室で、褐色の塊をハンマーで砕いた。作業は3時間前後で終わったという。

 「入室する時、ふだんの作業服だったので、1度は制止されたが、同行した上司がそのまま入らせた。名前の記入も求められなかった」と金さん。その時は放射線管理区域の表示が何を意味するか判然としなかった。さらに26日間、区域外で働いた。頭痛や目まいといった症状が続いた。

 妻(28)の最初の流産は1988年11月で、1,700グラムの胎児は頭部が通常胎児の半分にも満たなかった。家族の間でさえこのことを口にするのは、はばかられた。韓電の社宅警備員をしていた1989年6月、次の胎児も無脳と分かり、帝王切開で中絶した。霊光総合病院の医師は、考えられる原因として遺伝、薬物中毒、それに放射線被曝を挙げた。

 2度の異常流産は口コミで広がり、やがて連日の報道となる。8月1日、光州の医師グループが城山里での健康調査を基に「無脳児の父を含め、原発周辺の住民に白血球減少、貧血が目立つ」と発表して、不安は一気に高まった。

 科学技術処(庁)は翌日、直ちに調査団を派遣した。住民との話し合いの席で、もう1人の原発作業員が「親子の異常」を訴えたことで、放射能汚染をめぐる論争はさらに広がった。

 騒ぎの中で警備員を辞職した金さんは今、里の外れで親子3人ひっそりと身を寄せ合って暮らしている。「原発で仕事さえしなかったらこんな目に遭わずに済んだのに」とだけ言って、沈黙が続いた。

もう1人の金さん 娘の左足首に障害

 妻(28)が無脳児を2度流産した金益成さんが「防護服なしで働いた」という霊光2号機のホウ素混合タンク室へ、韓国電力公社霊光原発放射線課長の案内で入った。

パンツ1枚になり、黄色いつなぎの放射線防護服に着替えて、2種類の線量計を胸につける。タンク室の分厚い扉が開くと、なま温かい空気が鼻孔を襲った。ガイガーカウンターの針はピクピク振れて0.05ミリレムを刻む。「住民らは危険だと騒ぐだけで放射線の知識がない」と課長がこぼした。私たちは針を見つめながら、もう1人の金さんの「事件」を思った。

 益成さんの遠い親類である金東必(キム・ドンピル)さん(22)は、霊光原発正門のそばで、両親と3人の兄弟、妻、それに生まれつき左足首が不自由な2歳の娘と暮らす。オンドル(床下暖房)が利いた部屋で、「仕事に就きたいのだが、体がだるくて」と所在なさそうにつぶやいた。

 東必さんが放射能汚染論議の2人目の主役になったのは、1989年8月3日。益成さんの「事件」を収拾するため急きょ現地入りした科学技術処調査団と住民の話し合いの席だった。「娘の障害は、自分が原発で働いたことと関係があるのか」と質問した。この若い父親の問いかけが、当夜のテレビで「原発作業員の娘に先天性奇形」と報じられ、波紋を広げた。

 日当9万ウォン(約1万9千円)というふだんの10倍を超える賃金に誘われ、東必さんが下請け会社の臨時作業員として営業運転目前の1号機に入ったのは、1986年7月である。他の作業員7人とはその日が初対面だった。安全管理教育も受けないまま、1回15分ずつ2日間、延べ1時間働いた。

影響認めない韓電

 作業は、加圧機内部の配管交換だった。1回目は200ミリレムまでの被曝線量を測  るポケット線量計だったが、2回目からは500ミリレム計に変わった。東必さんは室内の熱さと息苦しさに耐えられなくなり、マスクを外し、パイプの溶接部分の除染などをした。作業後、汚染測定器モニターは何度も赤いランプを点灯したが、被曝線量を記入することは伝えられていなかった。

 この前は放射線の放出が激しかったというので数日後、環境放射線実験室に呼ばれた。詳しい検査結果は知らされなかったが、「700~800ミリレム」と検査員が何げなく口にした数字が耳に残った。両手にできものが広がり、1年後、長女が生まれた。

 韓電は、東必さんの被曝線量は70ミリレムと国政監査の場などで主張している。国際放射線防護委員会(ICRP)で定めた年間の「線量限度」5千ミリレム以下であり、皮膚疾患や頭痛の直接的原因には当たらないと因果関係を否定する。益成さんについては「管理区域に入った事実はない」と被曝したことすら認めていない。

 2人の金さんの訴えに対し、科学技術処は「本人たちが望む通り、外国で精密検査を受けさせる」と表明している。東必さんは高校時代、テコンドー2段のスポーツマンだったが、今は体力も落ち両親の食堂を手伝いながら、もんもんとした日々を送っている。

 「韓国人として、自国の医療機関を信用しないのは心苦しいが、韓電や政府は『安全で、影響はない』と言う。何もかも否定する態度にがまんができない」と憤る。

 支援を約束してくれた同じ城山里の住民が急によそよそしくなったし、さまざまな中傷、誹謗(ひぼう)もある。「何か大きな壁が自分を取り囲んでいるとしか思えない」と漏らす。不信はますます募っていく。

 「今は公正な診察を受け、放射線被曝の影響がどうなのかを知りたいだけ。それまでは怖くて子供はつくれない」。東必さんの心を被曝がむしばみ続ける。