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世界のヒバクシャ

2.被曝線量 失職恐れ過少申告

第4章: インド・マレーシア・韓国
第3部: 放射能不安―韓国「核」発電所

 浜に朽ちかけた漁船が横たわっていた。警備員が、長く延びた海岸線に鋭い視線を注ぐ。慶尚南道梁山郡長安邑古里(こり)は、釜山から北東に30キロほど行った所にある。東海(日本海)に面したこの里で、韓国初の原発が稼働したのは1978年、朴正熙((パク・チョンヒ)大統領の時代である。その後3基が増設され、国内最大の原発になった。

 「なにしろ核発電所へ行けば金にありつけるから」。古里に隣接する孝岩里の崔大永(チョイ・デマン)里長(28)は、多くの住民がイリョン(日雇い)で原発に入る背景をこう説明した。ここは経済成長から取り残され、コンブ養殖で細々と生計を支える漁業の里である。

 宋文吉(ソン・ムンギル)さん(38)と金鶴文(キム・ハクムン)さん(36)は、ともに古里原発で働いた経験を持つ。「放射線といっても、大したことはないと思っていた」と2人は顔を見合わせた。

 ところが、人口750人の孝岩里で1988年から89年にかけて、5人ががんで死亡し、そのうち男3人はいずれも原発の日雇い作業員だった。加えて、里内に手袋など原発内の廃棄物がひそかに埋められていたことが明るみに出て、住民の不安と不信が原発に向けられ始めた。

 そこへ飛び込んだのが7月末からの霊光原発の放射能汚染騒ぎである。宋さんや金さんら10数人が訴えていた体の不調が、改めて問題になった。

食い違う所長の話

 1日6時間働いて2万ウォン(約4,200円)という収入は、2人には大きな魅力だった。1989年も、コンブ漁が一息ついた6月15日から7月22日まで、4号機格納容器内で蒸気発生器のパイプ点検に、下請け会社の作業員として参加した。2人は、拍子抜けするくらいあっけらかんと、仕事のことや体調について語った。

 保温材の石綿を外して洗浄液でパイプを洗い、研削機でさびを落とす。「被曝線量は多い日は90ミリレムになった」と言う。むし暑さで、防護マスクはあまり着けずに働いた。何日かすると、腹や背中に斑点が広がったが、「あせもだろう」と仲間内で「診断」を下し、夜はふだん口にしない酒の力を借りて疲れをいやした。

 3カ月間で1,250ミリレム。韓国科学技術処は、この「基準」を超えた作業員には、放射線管理区域内での就労を認めていない。3カ月ごとのチェックで、国際的な「線量限度」年間5千ミリレムを超えないように指導しようというわけだ。1988年、原発就労者6,639人のうち、「線量限度」オーバーは1人もいなかったという。古里3、4号機の洪周甫所長は「日雇い作業員も厳しく教育している。皮膚病や体のだるさは別の原因だろう」と力説した。

 だが、宋さんと金さんがこともなげに語った現場の「実態」は、洪所長の説明とは明らかに食い違っていた。

 「線量を少なめに報告書に記入した。『ゼロ』と書いたこともある」と宋さんが言えば、「線量が多そうだなと思った日は、線量計を着替え室に置いたまま入った。見つかることもなかった」と、金さんも放射線量をごまかしていたことを告白した。彼らは1カ月余り、こんな「操作」を繰り返しながら、記録として残る総線量は800ミリレム前後に調整した。「基準」を超えると原発内で働けなくなる―。2人にとって、被曝よりも生活の方が問題だったのだ。

 夏の汚染騒ぎの後、韓電側は宋さんや金さんら9人に「被曝手当」として1人6万~10万ウォンを支払った。「はした金で命を削ってばかなことをするもんだ」と崔里長がたしなめると、2人は「もう放射線を浴びてまで働かないよ」と口をそろえた。