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世界のヒバクシャ

3. 臨時職員の死

第4章: インド・マレーシア・韓国
第3部: 放射能不安―韓国「核」発電所

正社員夢見て働く

 1989年6月9日、原発で働いていた1人の男性が、胃がんのため亡くなった。まだ29歳の青年方潤東(パン・ユンドン)さん。あまりにも早過すぎる死だった。

 「裁判をしてでも本当の原因を突き止めたいが、われわれの力では卵を持って岩に立ち向かうようなもの」と言って、弟の潤杜(ユンド)さん(26)はひざをたたいて無念さを表した。兄の身に何が起きたのかという疑問は、今も彼の頭から離れない。そばで無言のアボジ(父)とオモニ(母)、そして満1歳を過ぎたばかりの遺児が、無邪気にハエたたきを振り回す姿が痛々しい。

 ソウルから南に約60キロの京畿道安城郡は、ポプラ並木が一直線に延びる米どころである。取り入れの終わった田んぼが初冬の日差しを浴びて広がる。

 二竹面(村)にある潤東さんの生家は水田1.6ヘクタール、畑0.6ヘクタールの典型的な中産農家だ。8人兄弟の4男として生まれ、地元の商業高校を卒業し、3年の兵役の後、同郷の友人に誘われ1984年1月、韓国電力補修会社の臨時職員となった。勤務先は慶尚南道、古里原発だった。

 「辛抱強い子だった」とオモニが潤東さんのことを語ってくれた。169センチ、67キロのがっちりとして寡黙なタイプ。酒、たばこはたしなまず、「早く正社員になって帰りたい」が、たまの帰省時の口ぐせだった。仕事の内容は家族にもほとんど話さなかった。月給は、初め14万ウオン(約3万円)だったので、両親は米や野菜を送って、同じ二竹面出身の崔昌蘭(チョイ・チャンラン)さん(29)との新婚生活を助けた。

 幾度かの挑戦を経て電気技師の資格を取得し、1988年4月社員になった。が、祝福を兼ねて訪ねた潤杜さんが目にしたのは、見る影もなくやつれ果てた兄の姿だった。大きな発電所で華やかにやっていると思ったのに、「休みは取れない、食欲もない」とこぼした。母の手作りの弁当にもはしを付けようとしなかった。

 
肝臓にも転移

 やっと念願がかない、郷里近くの平沢火力発電所に転勤した6月から、潤東さんは食事がますますのどを通らなくなる。胃がんと判明したのは半年後。ソウル大学病院で手術をしたが、すでに肝臓にも転移していた。

 「古里原発の元作業員。完治不能」。民主化宣言後生まれたハンギョレ新聞の1989年初めのこのスクープで、放射線被曝との因果関係が関心を呼び、マスコミを舞台に、韓電側と反核団体が論争を始めた。

 潤東さんの古里での仕事は1、2号機の定期点検や計画外停止の際、電気系統やポンプなどの補修作業だった。韓電側は、被曝線量は多い年が1985年の2,647ミリレム、年平均1,109ミリレム、原子力法で定めた「法上許容値」年間5千ミリレムを下回っており、発がんの原因とは考えられないと主張した。

 被曝と発がんとの因果関係は、現代の医学をもってしても証明できない。しかし、無関係であると証明するのはもっと難しい。

 葬儀の日、100万ウオン(21万円)が見舞金として届いた。2児を抱えた崔さんに「仕事を紹介する」との誘いもあった。だが、亡き夫の最後の職場は断り、彼女は11月から、仁川発電所で事務員として働き始めた。

 「兄の被曝線量は本当なのか」。潤杜さんは何度か韓電側に掛け合ったが、「記録は見せられない」と、公表を拒否された。病床の潤東さんは恨みがましいことは一切口にしなかった。ただ、マスコミを通じた韓電側の主張に触れるたびに、「『安全だ』という人間は、自分が働いた危険な場所には入って来なかった」と繰り返した。これが、古里原発で4年3カ月、臨時作業員として働いた兄の残した言葉となった。