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世界のヒバクシャ

2. 放射性廃液で海岸を汚染

第5章: 英国 • フランス
第1部: 核工場40年の「遺産」―英国セラフィールド

1960年代 急速に汚染進む

 1957年の大火災で2つの原子炉が閉鎖されたセラフィールドでは、すでに1952年からウランとプルトニウムを分離する再処理工場が稼働していた。また事故の1年前には「メーターで測れないほど安い電気代」というふれ込みで、世界初の発電用原子炉が完成し、電力を供給しながら、その使用済み燃料からプルトニウムを取り出す技術体系も確立した。

 「あのころからですよ、アイリッシュ海の放射能汚染が進み始めたのは」。小柄なジーン・マクソブリさん(31)は、机に資料を広げて説明を始めた。彼女は、カンブリア地方の放射能汚染を監視する市民グループ「CORE(コア)」のメンバーである。

 コアの事務所はセラフィールドから南へ50キロほど行ったバローインファーネス市にあり、市民たちによる環境監視活動は、すでに10年に及んでいる。

 「アイリッシュ海の汚染は1960年代に入って急速に進んだのよ」とマクソブリさんは言った。特に、大型の核燃料再処理工場が完成した1964年以降、大量の放射性廃液が、2.5キロメートルのパイプラインを通して海へ捨てられた。増産体制に入った1970年代には、1日1千万リットルの廃液がたれ流しにされ、汚染はピークに達する。

 「廃液には、プルトニウムやセシウムなど30種以上の放射性物質が含まれていたの。半減期2万4千年のプルトニウム239や、400年余りのアメリシウム241などアルファ線を放出する物質で汚染されているのがここの特徴よ」。マクソブリさんは分かりやすく説明を続けた。

 アルファ線は、薄い紙でも十分遮ることができる。しかし、いったん体内に入ると、ガンマ線やベータ線より、影響ははるかに大きく深刻である。それほどひどい放射能汚染があったにもかかわらず、周辺住民の間ではほとんど問題にされなかった。不安が広がり始めたのは1976年だった。

周辺国が閉鎖要求

 「きっかけはね、外国からの使用済み核燃料の再処理計画が持ち上がってからよ。日本もその中に入っていたわ」。マクソブリさんらは反対運動を進める中で、独自の環境調査に取りかかった。データが集まるにつれて、アイリッシュ海の汚染の深刻さが、1つひとつ明らかになって行った。

 プランクトン、貝、魚など魚介類の汚染には、近隣諸国も神経をとがらせた。アイルランド政府は1980年、セラフィールドの閉鎖を要求し、1985年には、欧州議会に「即時閉鎖」の動議も提出された。しかし、前者は無視され、後者は英国政府の強硬な反対で可決に至らなかった。

 マクソブリさんが1枚のグラフを見せてくれた。それは、英国環境省が5年前、カンブリア地方沿岸部で、家庭用掃除機のほこりの中から検出したプルトニウム239、240、アメリシウム241の最高値を、オックスフォード市のそれと比較したものである。

 12カ所の測定地点の中で、棒グラフが極端に伸びている地点があった。セラフィールドの南10キロのレイベングラス村である。ここでは、オックスフォードに比べプルトニウムが500倍、アメリシウムが2万6千倍を記録している。

 「レイベングラスはね、湾になっていて、沖から泥や砂が潮流に乗って堆積(たいせき)するの。潮が引くと、汚染された砂が風に乗って家の中に飛んでくるわけ」

 その話を聞いて、私たちは後日、マクソブリさんが教えてくれたその海岸を歩いてみた。そこは、20年前まで2万羽を超す水鳥が群れていたという野鳥保護区だ。あたりは彼女の話がまるでうそのように静まり返り、広大な干潟の上を時折カモメが舞った。