3. 楽園失い一家の暮らし破壊
13年2月27日
第5章: 英国 • フランス
第1部: 核工場40年の「遺産」―英国セラフィールド
第1部: 核工場40年の「遺産」―英国セラフィールド
海辺から山の中へ
そこが放射能の「吹きだまり」とはつゆ知らず、レイベングラス村の海辺の家を買い求めたばかりに、生活崩壊寸前まで追い詰められた一家がある。機械技術者のクリストファ・マーリンさん(48)、妻クリスティーンさん(50)、長男サム君(12)、二男ベン君(11)の4人家族である。彼らに会いたいと村を訪ね歩くと「あの一家なら5年前に山の方へ引っ越して行ったよ」と村人が教えてくれた。
だが、マーリン家の住まいを捜し出すのは一苦労だった。細い山道を、慣れないレンタカーで2時間ほど行くと、人里離れた山の中腹に、ゆうに100年は経ているに違いない石造りの家がぽつんと建っていた。
人なつっこい2匹の犬に続いて、一家4人が私たちを玄関に出迎えてくれた。「どう?山の中はおきらい?」と、クリスティーンさんがにこやかに話しかけてきた。家の前を小川が流れ、川向こうに羊を囲い込む石垣が続く。周りはうっそうとした森。そこは、核工場の汚染にさいなまれた家族の、自然を求める痛切な思いが凝縮されているかのように見えた。
「私たち、もともとロンドン郊外に住んでいたの」「あの海辺は、医者だった父が何度も連れて行ってくれた思い出の場所なんだ」「村の人たちには親切にしてもらったわ」「水鳥の舞もすばらしかったよ」。夫妻は、レイベングラスに住み始めた1973年当時のほんのひと時の幸せを、こもごも口にした。
その当時夫妻は、その水鳥の楽園から北へ10キロの場所にあるセラフィールド核工場など、名前を聞いたことすらなかった。長男のサム君が生まれる1年前の1976年春、放射線防護委員会の職員と名乗る男が、庭先に放射線モニタリング機器を設置させてほしい、と訪ねてきた。
「心配ない」と言いながら、汚染のことになると言を左右にする防護委員会に、以前から不信感を持っていたマーリンさんは、友人の忠告もあって家の中の放射能測定を求めたが、まったく相手にしてくれなかった。不安になった2人は、掃除機にたまったごみを米国ピッツバーグ大学に送って、分析を依頼した。
損害賠償求め提訴
分析の結果、夫妻の不安はズバリ的中した。ごみの中からプルトニウムとアメリシウムが見つかり、1グラム当たり13.5ピコキュリーのアルファ線が放出されたことが分かった。おまけにピッツバーグ大学からの報告書には「米国では土壌に1ピコキュリー以上ある場合、家の建築は許可されません」と書き添えてあった。
子供のことを考えると心配で心配でたまらなくなった2人は、海辺の家が売れるめどもないまま、1982年に現在の家と農地を、全額借金で購入した。
海から山への引っ越しまでは2年待たねばならなかった。「長くて苦しい毎日だったわねえ」とクリスティーンさんはしみじみと語る。転居待ちの間、セラフィールド放射能汚染をテーマにしたテレビ番組に出演した時、村人は憎悪の目を家族に向けた。「魚が売れなくなる」「観光客がそっぽを向く」―というのだ。
12年間住んだ海辺の家は買いたたかれ、借金の返済に追われて、一家は物心ともに苦境に立った。たまりかねた夫妻は1985年、セラフィールド核工場を管理・運営する核燃料公社を相手に8万ポンド(約1,920万円)の損害賠償を求める訴訟に踏み切った。
「公社は放射能廃液を海に流しながら、汚染を隠していた。僕たちは一方的に被害者なんだ。きっと勝つ」。判決を前にしたマーリン夫妻は、自信をのぞかせながら言った。
セラフィールド核工場の汚染被害は生活破壊にとどまらない。長い年月の間に放射性物質をため込んだ水や大地は、周辺住民の健康をもむしばみ、人々を白血病やがんの恐怖に陥れて行った。