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世界のヒバクシャ

8. 広島被爆の移住者 援助に期待

第6章: ブラジル • ナミビア
第1部: 光る粉の惨事―ブラジルのセシウム汚染

「原爆と同じ症状」

 セシウム汚染に揺れるゴイアニア市に、広島の原爆被爆者が住んでいた。広島市広瀬元町出身の横山敏行さん(60)である。

 「新聞を見て、原爆と同じじゃと、とっさに思いましたよ。妻にも、これからひどいことになるじゃろう、と言うたんです。リオの海軍病院へ運ばれた人は、髪が抜けて皮膚にはやけどの症状があると書いてあった。原爆にやられた時、広島も同じじゃった。こっちの新聞には3日で治ると出とったが、放射線被曝はそんな簡単なもんじゃない。そう思うたですよ」。市街地が途切れた丘陵地帯への入り口にある自宅で、横山さんは事故当時を振り返った。

   横山さんが被爆したのは、現在の西区三篠町3丁目にあった旋盤工場で、中学2年の動員学徒の時だった。

 「幸い旋盤の下にもぐり込んで助かったんですが、背中や腕にガラスが刺さって、血だらけになりました。逃げる途中、太田川には水膨れの死体が無数に浮いとりました。1カ月して父が亡くなりましたが、その時、父の髪はきれいに抜けとったです」

 横山さんは、1953年、呼び寄せ移民でブラジルに渡った。その後、野菜作りで7人の子供を育て、今はゴイアニア市職員として働く。「セシウムの被害者を何とかしてあげたいとは思うんじゃが…。移民一世はまず衣食住のめどをつけ、子供の生活基盤をつくってやるのが精いっぱいでのう」。横山さんは肩を落として言った。

乏しい放射線知識

 1988年10月には、広島県などが派遣した医師団の巡回健康相談を受けにサンパウロ市まで出かけ、広島赤十字・原爆病院の蔵本潔副院長に会った。「その折、先生にゴイアニアまで足を延ばしてセシウムの被害者を診て下さいと頼んだが、残念ながら日程の都合がつかず、実現しなかった」

 だが、横山さんは広島からの支援の希望を捨てたわけではない。「親類から来た写真を見ると、広島は立派に復興しとる。ゴイアニアと姉妹縁組を結んで援助してほしいんじゃが…。こっちじゃ放射線のことを知っとる人もおらんのですよ」

 事故後、もう1人の広島出身者が現地を訪れた。1952年から11年間、広島記念病院の内科医を務めた広藤道男さん(70)である。私たちは取材から帰国後、東京都大田区東馬込2丁目の広藤さんの自宅を訪ねた。

 「新聞で事故を知り、ブラジル大使館へ原爆治療の資料を送ったら、来てくれというんで…」と広藤さんは言った。その後、事故から3カ月たった12月初旬に現地入りし、3週間滞在した。

 「ゴイアニアの被曝者の急性症状は、原爆の熱線と爆風を除いた症状と考えればよい。そう指摘したら、現地の医師は治療法を質問した。特別の方法があるわけではないし、つらかったが、被曝者の細胞を活性化する電位療法や晩発障害への備えなど、知っていることはすべて話してきた」

 帰国後、長崎の医学会誌に報告論文を書いたという広藤さんは別れ際に言った。「医療用放射性物質は世界中で使われている。だが、事故が起きても100パーセント被害者を救う道はまだ遠い。まずはきちんと管理するのが第一だ。ゴイアニアへ行って心からそう思いましたよ」