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原爆記録写真

菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ

ヒロシマのネガ現存783点 資料館調査へ
※2007年1月17日付特集などから。

■編集委員 西本雅実

 被爆直後の広島の惨状を鮮明に収めた写真家、菊池俊吉さん(1916-90年)撮影のネガフィルムが、良好な状態で現存していることが分かった。東京都練馬区に住む妻の徳子さん(82)が保管しており、一人の撮影による原爆記録写真では最多の783点。広島市の原爆資料館は「被爆の実態を確かめ、伝えるうえで貴重な記録だ」として調査に乗り出す。

 菊池さんは、旧文部省が編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から20日までスチル写真の撮影に当たった。

 ネガフィルムは、35ミリが700点、66判(6センチ×6センチ)が83点。広島赤十字病院(中区)や広島逓信病院(中区)で治療を受けるやけどや放射線障害の患者、救護病院となった大芝国民学校(西区)で死にゆく親子ら、被爆直後の生々しい光景を克明にとらえている。

 また、撮影日・撮影場所を記した記録紙(複写)も残り、写された人物の一部については症状のメモ書きがある。ネガと照らすと、未解明の部分も残る被爆の全容を埋める手掛かりとなっている。

 徳子さんは「菊池が心血を注いで撮ったネガを損なってはいけないと思い、普段は銀行の貸金庫に預けている。広島で受け入れる手はずが整えば協力します」と、ネガの調査と活用に応じる考えを示している。

 菊池さんや、同じ記録映画のスチルを担当した林重男さん(1918-2002年)が撮った原爆写真は、米軍の接収に遭ったが、ネガは各自が守り抜いた。広島の陸軍船舶司令部写真班員らが撮ったネガは米軍の進駐前に軍の命令で廃棄され、写真も散逸した。

 接収された写真は、73年に米軍病理学研究所から返還され、広島関係は約1200点に上った。そのうち菊池さんの複製プリントは214点あった。

 これまでマスコミなどを通じて部分的に紹介されてきたが、複写を重ねて不鮮明なうえに、広島市も本格的な調査をしてこなかった。このため間違いや不十分な説明が少なくない。林さんのネガは2000年に原爆資料館へ寄せられ、調査を経て同館の「平和データベース」で公開されている。まず、菊池さんの写真をめぐる史実と写っていた被爆者の証言とともに、ネガに焼き付けられた世界に迫る。

焼き付けた記憶 語り始めたネガ

 「本当に無口でした。それでも『広島では塩をなめなめ撮影した』とよく話していたので、このネガだけは私の着物を入れたキリのたんすにしまい、今は銀行の貸金庫に保管しているわけです」

 菊池さんと戦後の1947年に結婚した徳子さん(82)は、東京都練馬区の自宅で持ち帰ったネガ袋を広げた。「東方社写真部」の印字が入った撮影記録用紙もあった。

 岩手県花巻市生まれの菊池さんは、「日本写真家辞典」によると、オリエンタル写真工業が設けた学校(東京)で技術を学び、陸軍参謀本部が41年に組織した対外宣伝機関、「東方社」の写真部に入る。報道写真家として知られた木村伊兵衛を部長に第一線のカメラマンが集まった。  「特殊爆弾は原爆」。広島壊滅2日後の45年8月8日に空路広島入りし、原爆であることを特定した仁科芳雄博士を中心に、文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が翌月14日に設置される。社団法人の「日本映画社」は調査に同行する原爆記録映画の製作を並行して企画。そこで「東方社」にスチル撮影者の派遣を依頼した。

 残留放射能の恐怖が東京でも言いはやされていた最中。しかし「菊池俊吉氏が名のり出ました。あと1人ということになり、私も一歩前へ出ました」。「東方社」に所属した写真家の林重男さんは、「爆心地ヒロシマに入る」でそう著している。生前、記者の取材に「若かったこともあるが、原爆の怖さを知らなかった」と補足した。

 菊池さんは、記録映画で5班からなる「医学班」に付く。同班監督の山中真男さん(1902-78年)が、大学ノートに詳細に記した「原爆撮影日誌」が残る。遺族が原爆資料館に寄せていた。

 カメラマンと撮影監督の行動記録を突き合わせると、足取りがよみがえってくる。

 菊池さんらは9月27日、東京駅を出発。21時間かけて着いた尾道から機帆船に乗り29日、広島・宇品港に上陸。市東部の海田市町にあった製鋼所の寮に荷を解き、10月1日から撮影を始める。菊池さんは20日まで廃虚を回ってシャッターを切り、22日広島を離れた。

 だが、菊池さん、「物理班」に付いた林さんが撮った写真、日映製作の35ミリフィルムは、米軍の接収に遭う。占領下、「原爆の効果」は国内外に機密とされた。  フィルムが画質の劣る16ミリで返ってきたのは67年。今度は文部省が「学術・教育目的に限る」と上映に制約を付けた。菊池さん撮影の214点を含む広島関係分の約1200点の複製写真は73年に返還され、マスコミ報道を通じて反響を呼んだ。しかし撮影者の意には反していた。

 菊池さんは「自分の写真がテレビに出て、これは日本人が写したらしいと説明されるのには驚いた」(中国新聞73年7月29日付)と述べている。不鮮明な複写があやふやな説明で出回った。

 ネガは菊池さん、林さんが占領下の時代から実は守り抜いていた。「劣化するネガの永久保存を」と、公的な収集や保存策を訴えたが、被爆地広島市も乗り出さなかった。

 林さんが、撮影ネガ232点を原爆資料館に寄せたのは亡くなる2年前の2000年。現在、同館が発信する「平和データベース」でも見ることができる。一方、菊池さんにはこれまで働き掛けをしてこなかった。徳子さんが夫の遺志を受け継いでネガを守ってきた。

 紹介する写真はいずれもネガからのプリント。撮影日はネガの順番や行動記録から推し量り、撮影場所の特定や被写体の説明は、取材と各種文献を検証して記述した。

 「あの日」から62年の歳月を迎えても可能だったのは、原爆の悲惨さに向き合った記録者たちの執念のような営みがあったからだ。

看護する様子を撮影された本多浜子さん

 「この患者さんは覚えています。眼球を摘出しました」。瀬戸内に浮かぶ中島(松山市熊田)に住む本多浜子さん(79)は、自らも写ったオリジナル写真にヒロシマの記憶を重ねた。撮られたのは爆心地から北東1.3キロの旧広島逓信病院(中区東白島町)の1階西端だった。

 旧中国電気通信局が1955年に編んだ「広島原爆誌」の逓信病院の項で「眼科医長小山綾夫」に続いて「(看護婦)脇田」とあるのが、被爆時17歳だった本多さん。郷里の中島から広島に出て勤務していた。

 「どーんという爆音がした瞬間、私は廊下にいて無傷だったんです」。小山医長は無数のガラス片に見舞われていた。空襲に備えて入院患者はいなかったが、近くの軍の施設からやけどの男たちが押し寄せてきた。油を塗っていると、2階が猛火に包まれる。油や脱脂綿を持って兵隊らを誘導し、京橋川を泳いで渡って逃げるうち、いつしか1人になっていた。

 本多さんは翌日から焼け残った病院で寝泊まりして、老若男女にせめてもの赤チンを塗り続けた。赤裸々な証言の中で「人間というものは哀れですよ…」とつぶやいた。

 玄関や廊下、便所にも死体があっても気に留める者がいない。急性放射線障害から下血する患者が現れた。しかし当時は誰もが「赤痢」だと思った。急ごしらえの小屋に隔離すると、炎天下の暑さに耐えられず院内にはって戻ろうとする。患者同士でけんかをするうちに息絶えていた。

 重症の病院長に代わって指揮を執った小山医長(1991年、80歳で死去)はこう書き残していた。「悲惨さも限度を超えると、我々のそれに対応する人間性が失われることは恐ろしく淋(さび)しいことだ」(「広島市医師会だより」81年の「原爆特集」から)

 本多さんは、死と隣り合わせの病院で終戦を伝える「玉音放送」を聞き、いったん帰省した。鼻血や歯のうずきが続いた。「死ぬじゃろう」。周囲のささやき声にあらがうように再び広島へ。眼科の暗室で工兵隊の毛布にくるまって夜を過ごし、鉄かぶとを鍋代わりに配給の米をたいた。

 写真を撮られたのはそのころ。混乱が続く状況が、原爆記録映画「医学班」の監督だった山中真男さんの「原爆日誌」に記されていた。後に著した「ヒロシマ日記」で知られる蜂谷道彦院長(80年、76歳で死去)らは「患者は帰るに家はなく(略)栄養はとれずヒンミンクツですよ」と、やり場のない怒りを表した。

 本多さんは翌年7月退職した。「体のことより、県外から新しくきた人たちと考えや話が合わんかった」。身をもって原爆のすさまじさを体験したことが違和感を募らせた。

 郷里に戻り、復員した遠縁の勝美さんと結婚。夏になると体がだるくなるのを「何でじゃろうか」といぶかりながらミカン畑に出た。一男三女を育て上げた。夫が脳梗塞(こうそく)に襲われて1996年に79歳で亡くなった後も畑を守り、今は長男夫婦との3人暮らし。

 「被爆のことは、こちらでは言いやしません。おかしな目で見る人がおりますから」。子や孫をおもんぱかってのこと。被爆の実態を切り取った写真を前にして、問わず語りにこうも話した。「主人は兵隊として8年間も外地を転戦し、ヘビやネズミも食べたそうです。戦争だけは嫌じゃ。これだけは声を大にしたいですよ」

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