- 原爆記録写真
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菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅱ
被爆者の治療に当たった広島赤十字病院を中心に
※2007年2月28日付特集などから。
■編集委員 西本雅実
被爆直後の広島を克明に撮った写真家、菊池俊吉さんのネガフィルムから今回は、市民らの治療に当たった広島赤十字病院をめぐる写真を中心に紹介する。撮影記録によると、いずれも1945年10月4日から6日にかけて。当時のメモや資料などを手掛かりに写っていた人たちを追い、被爆の実態に迫る。
「母」の看護に支えられ
「娘盛りなのに顔がこんなになり死んだ方がいい…腕もなかなか治らず『切ってちょうだい』と口走り、母を困らせたことがあります」。栃木県小山市で健在だった陸田(くがた)豊子さん(84)は、ネガに焼き付けられた自身の姿をじっと見つめた。口ぶりはどこまでも穏やかだった。
広島市中区本通にあった安田生命広島支店に勤めていた。田畑が広がっていた吉島本町3丁目(中区)の住まいから歩いて南大橋を抜け、日赤そばの電停から路面電車に乗るのが通勤コース。45年8月6日は、その南大橋で閃光(せんこう)にさらされ元安川へ吹き飛ばされた。爆心地の南1.7キロ。助かったのが奇跡といえる。
「向こう岸(大手町方面)に渡ろうと思ったけれど、気力もなくて橋の柱につかまっていました」。岸にも川にも数え切れないほどの無残な姿が広がるうち「軍の船で宇品(南区)に運ばれた」。宇品凱旋(がいせん)館に構えていた陸軍船舶司令部の部隊に救助されたとみられる。
とりあえず油を塗ってもらいムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、さらに海路で玖波国民学校(大竹市)へ。80年に見つかった旧玖波町の「収容患者名簿」に陸田さんの名前が残っていた。重傷者を示す○印が付けられていた。80人が収容され、終戦前日の8月14日までに11人が死亡している。 「私の名前が広島で張り出され、母が親類の兄と荷車で迎えにきてくれたんです」。吉島本町に戻ったのは8月24日。住まい隣の農家から借りた、その荷車で日赤に通い、治療を受ける姿が、旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池さんによってくしくも収められた。
米軍の写真接収を経て、73年の「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開され、「荷車の親子」と称された。原爆の悲惨さを伝える写真として注目を集めた。荷車を引いていたのは父の妹だったコヒデさん(77年、81歳で死去)。陸田さんは幼いころ父と死別し、叔母とその息子と暮らしていた。
あらためてこう振り返った。「母も同然でした。吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取ってくれ、どうやって治療費を工面したのか、足も焼かれて歩けない私を毎日のように日赤へ運んでくれたんです」
コヒデさんの懸命の看護もあり翌年に職場へ復帰。自ら求めて東京に転勤した。いいなずけが復員していた。「原爆のせいで反対にも遭いましたが…」。縁戚でもあった陸田肇さんと結婚し、電機メーカー社員の夫の勤務地である小山市に落ち着いた。
一男二女を育て、1997年に76歳だった夫を見送った。2005年前には脳梗塞(こうそく)に襲われた。「原爆の影響とは思いません」と退けながら、熱線の傷あとが残る左手は「年を取るにつれて硬直し、お茶わんを持てなくなった」という。
「あの日」から続く暮らしの一端を、「広島を離れていても被爆者だと意識させられています」と表した。
原爆の記録写真にも残る自身の体験については、孫5人にもあまり話していない。それでも取材に応じたのはこんな思いからだった。
「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増え、こういう形でしか分からないんでしょう…。原爆でどういうふうになるのかを見て分かってほしい」。問いかけるように、願うように言葉を紡いだ。
姉弟 奪われた未来
「頭髪の抜けた姉弟」の写真は、広島市の原爆資料館の図録「ヒロシマを世界に」で「被爆した姉(当時11歳)と弟(当時9歳)」と紹介されているのをはじめ、原爆関連の書籍でよく掲載されている。放射線障害の恐ろしさを示す歴史的な写真だ。しかし、名前も被爆時の年齢もまちまち。確かめてみると、姉は池本アイ子さん=被爆当時9歳、弟は徹さん=同7歳=だった。二人とも既に亡くなっていたが、親族を捜し当てることができた。
父の友一さん(1995年に90歳で死去)が被爆翌日に受け取り残していた罹災(りさい)証明書に、当時の住まいは中区の「舟入町54」とある。母タメ子さん(2001年に95歳で死去)の生前の証言を合わせると、姉弟は神崎国民学校に通い、空襲に備えて分散授業所があった自宅近くの銭湯で被爆し、いったんは防空壕(ごう)に逃げた。重傷者が運ばれてきたため外に出され、放射線降下物を含む黒い雨を浴びた。
家族は戦後、南千田西町(中区)に移り住んだ。徹さんは小学六年生となった春の遠足から戻ると急に体調を崩し、49年6月17日に11歳で死去した。
アイ子さんは中国電力に勤め、結婚。男児をもうけて間もなくガンに襲われた。広島大医学部付属病院での闘病に父が仕事を辞めて付き添うなどしたが願いは届かず、65年1月21日に死去。まだ29歳の若さだった。
写真に見えるアイ子さんのもんぺは、自宅も焼けた後に母が親族から譲ってもらった着物をほどいて作ったという。亡き両親宅の仏壇に納められていた姉弟の遺影は広島赤十字病院で撮られた、この2枚だった。
※写真はクリックすると大きくなります。
※2007年2月28日付特集などから。
■編集委員 西本雅実
被爆直後の広島を克明に撮った写真家、菊池俊吉さんのネガフィルムから今回は、市民らの治療に当たった広島赤十字病院をめぐる写真を中心に紹介する。撮影記録によると、いずれも1945年10月4日から6日にかけて。当時のメモや資料などを手掛かりに写っていた人たちを追い、被爆の実態に迫る。
「母」の看護に支えられ
「娘盛りなのに顔がこんなになり死んだ方がいい…腕もなかなか治らず『切ってちょうだい』と口走り、母を困らせたことがあります」。栃木県小山市で健在だった陸田(くがた)豊子さん(84)は、ネガに焼き付けられた自身の姿をじっと見つめた。口ぶりはどこまでも穏やかだった。
広島市中区本通にあった安田生命広島支店に勤めていた。田畑が広がっていた吉島本町3丁目(中区)の住まいから歩いて南大橋を抜け、日赤そばの電停から路面電車に乗るのが通勤コース。45年8月6日は、その南大橋で閃光(せんこう)にさらされ元安川へ吹き飛ばされた。爆心地の南1.7キロ。助かったのが奇跡といえる。
「向こう岸(大手町方面)に渡ろうと思ったけれど、気力もなくて橋の柱につかまっていました」。岸にも川にも数え切れないほどの無残な姿が広がるうち「軍の船で宇品(南区)に運ばれた」。宇品凱旋(がいせん)館に構えていた陸軍船舶司令部の部隊に救助されたとみられる。
とりあえず油を塗ってもらいムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、さらに海路で玖波国民学校(大竹市)へ。80年に見つかった旧玖波町の「収容患者名簿」に陸田さんの名前が残っていた。重傷者を示す○印が付けられていた。80人が収容され、終戦前日の8月14日までに11人が死亡している。 「私の名前が広島で張り出され、母が親類の兄と荷車で迎えにきてくれたんです」。吉島本町に戻ったのは8月24日。住まい隣の農家から借りた、その荷車で日赤に通い、治療を受ける姿が、旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池さんによってくしくも収められた。
米軍の写真接収を経て、73年の「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開され、「荷車の親子」と称された。原爆の悲惨さを伝える写真として注目を集めた。荷車を引いていたのは父の妹だったコヒデさん(77年、81歳で死去)。陸田さんは幼いころ父と死別し、叔母とその息子と暮らしていた。
あらためてこう振り返った。「母も同然でした。吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取ってくれ、どうやって治療費を工面したのか、足も焼かれて歩けない私を毎日のように日赤へ運んでくれたんです」
コヒデさんの懸命の看護もあり翌年に職場へ復帰。自ら求めて東京に転勤した。いいなずけが復員していた。「原爆のせいで反対にも遭いましたが…」。縁戚でもあった陸田肇さんと結婚し、電機メーカー社員の夫の勤務地である小山市に落ち着いた。
一男二女を育て、1997年に76歳だった夫を見送った。2005年前には脳梗塞(こうそく)に襲われた。「原爆の影響とは思いません」と退けながら、熱線の傷あとが残る左手は「年を取るにつれて硬直し、お茶わんを持てなくなった」という。
「あの日」から続く暮らしの一端を、「広島を離れていても被爆者だと意識させられています」と表した。
原爆の記録写真にも残る自身の体験については、孫5人にもあまり話していない。それでも取材に応じたのはこんな思いからだった。
「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増え、こういう形でしか分からないんでしょう…。原爆でどういうふうになるのかを見て分かってほしい」。問いかけるように、願うように言葉を紡いだ。
姉弟 奪われた未来
「頭髪の抜けた姉弟」の写真は、広島市の原爆資料館の図録「ヒロシマを世界に」で「被爆した姉(当時11歳)と弟(当時9歳)」と紹介されているのをはじめ、原爆関連の書籍でよく掲載されている。放射線障害の恐ろしさを示す歴史的な写真だ。しかし、名前も被爆時の年齢もまちまち。確かめてみると、姉は池本アイ子さん=被爆当時9歳、弟は徹さん=同7歳=だった。二人とも既に亡くなっていたが、親族を捜し当てることができた。
父の友一さん(1995年に90歳で死去)が被爆翌日に受け取り残していた罹災(りさい)証明書に、当時の住まいは中区の「舟入町54」とある。母タメ子さん(2001年に95歳で死去)の生前の証言を合わせると、姉弟は神崎国民学校に通い、空襲に備えて分散授業所があった自宅近くの銭湯で被爆し、いったんは防空壕(ごう)に逃げた。重傷者が運ばれてきたため外に出され、放射線降下物を含む黒い雨を浴びた。
家族は戦後、南千田西町(中区)に移り住んだ。徹さんは小学六年生となった春の遠足から戻ると急に体調を崩し、49年6月17日に11歳で死去した。
アイ子さんは中国電力に勤め、結婚。男児をもうけて間もなくガンに襲われた。広島大医学部付属病院での闘病に父が仕事を辞めて付き添うなどしたが願いは届かず、65年1月21日に死去。まだ29歳の若さだった。
写真に見えるアイ子さんのもんぺは、自宅も焼けた後に母が親族から譲ってもらった着物をほどいて作ったという。亡き両親宅の仏壇に納められていた姉弟の遺影は広島赤十字病院で撮られた、この2枚だった。
※写真はクリックすると大きくなります。