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原爆記録写真

被爆前の広島よみがえる 松本さん撮影の2000枚発見

■編集委員 西本雅実、藤村潤平

 広島市中区の紙屋町交差点そばで戦前に写真館を営んでいた松本若次さん(1965年に76歳で死去)が撮った写真約2000枚が、廿日市市の実家で保存されていた。被爆前の広島の暮らしぶりが鮮明に収められ、幅約1メートルの180度パノラマ写真もある。広島市公文書館は「第一級の資料」と新年度に企画展を開く。

 写真は1927(昭和2)年から原爆投下直前の45(同20)年3月にかけて撮影されていた。夏の甲子園大会で優勝した広商野球部を迎える県民の熱狂ぶり(29年)▽原爆ドーム前身の県産業奨励館での初の商品見本市(36年)▽「満蒙開拓青少年義勇軍」の壮行式(42年)など、昭和の広島の歩みを記録した貴重なプリントが現存している。

 松本さんは、現在の廿日市市地御前の出身で、1906(明治39)年に米国ロサンゼルスへ移民。農業を営むうち最新の写真技術を身につけて27年に家族で帰郷した。広島市猿楽町(中区基町)に専用スタジオの「広島写真館」を開き、広島陸軍運輸部などの撮影許可を得て軍事色が強まる中も撮影を続け、各新聞社の報道写真も手掛けた。

 スタジオは日米開戦の翌42年に閉め、プリントを地御前村の実家に移し、原爆による焼失を免れた。中区に住む孫の大内斉さん(51)が大量の写真があるのを昨年に確かめ一部を整理し、広島市などに情報を寄せた。

 市公文書館の高野和彦館長は「被爆前の広島を伝える写真は、個人から寄せられた複写分を含め約200枚しかなく、松本さん撮影の写真は内容の質、量とも群を抜く。企画展などを通し、多くの人に見てもらうようにしたい」と話している。


米国仕込み「第一級の資料」 市公文書館が新年度企画展

 松本さんが1927(昭和2)年10月に撮った地御前小(廿日市市)の運動会や、旧広島県庁(広島市中区加古町)前での葬送行列の180度パノラマ写真を、東京都写真美術館の三井圭司学芸員はこう検証した。

 「近景と遠景に距離差があるのに画像の精度は高い。撮影者はカメラ技術に熟知し、使い込んでいる。これほど良質な昭和初期のパノラマ写真が現存しているのは非常に珍しいといえます」。レンズがある一点で回る専用のパノラマ・カメラを使って撮り、スライド投影のように横から印画紙に焼き付けたともみる。

 「日本写真史を歩く」(飯沢耕太郎著)によると、最初の商業写真専門スタジオが東京に開設されたのは26年。なぜ、地方の写真師だった松本さんが高度な技術を要するパノラマ撮影ばかりか、欧米で興った幾何学的な構図やクローズアップの手法を取り入れた写真を手掛けられたのか。そこからは広島の歴史が浮かび上がってくる。

 戦前は全国一の移民県広島でも「アメリカ村」と呼ばれた地御前村に生まれ、父が移民した米国へ1906年渡る。現地で1922年発刊された「在米日本人々名辞典」に「羅府(ロサンゼルス)に農業経営、自動車所有」と名前が残っている。

 廿日市市に住む次女の川本静枝さん(83)は「向こうで写真の腕を磨いたそうです」という。移民家族が畑に立つ光景もパノラマに撮っている。財を得て当時の日本では手が届かない高価なカメラを携えて1927年、妻と2歳の静枝さんら7人の子を連れて帰郷した。



【写真説明】地御前尋常高等小学校の大運動会 米国から帰郷した直後の27年10月5日に撮影。校歌で「世界へ窓の開きたる」と歌ったように、地御前村は明治初期からハワイや米国本土に多数の移民が渡った。2階建て木造校舎は23年、米国などに在住する出身者らの寄付で建設された(プリントの原寸は縦25センチ、横116センチ) 


【写真説明】旧県庁前から望む街並み 葬送行列の後ろ中央は、水主町(中区加古町)の旧県庁向かい側にあった日本銀行広島支店。一帯には将校や官吏、大店の店主らの住まいもあった。支店は36年に袋町(中区)へ移転する(プリントの原寸は縦25センチ、横93センチ) 


 米国仕込みの写真技術は評判を得たとみられる。広島市の1932年版「商工案内」に「写真 猿楽町 松本若次」とある。そのスタジオ「広島写真館」は現在のそごう広島店が立つ一角。当時も繁華街で2階建てのスタジオはにぎわった。「父はあちこちと撮影に忙しく、学校を出て米国に戻る兄たちが現像焼き付けを手伝ったりしました」と静枝さん。

 商都・軍都として発展する広島で、シンボルの県産業奨励館(原爆ドーム)や西練兵場(市民球場一帯)での催し、県民こぞって沸いた広商野球部の凱旋(がいせん)、悲劇を生む「満蒙開拓青少年義勇軍」壮行式などを撮影した。

 だが、日米開戦の「41年には広島市が軍の機密保持のため撮影禁止区域となり」(「日本写真史を歩く」)、スタジオ経営も立ちいかなくなる。静枝さんによると、撮影機材などを馬車に積み地御前村の実家に42年春ごろ運んだという。それが結果として、写真を残すことになった。

 原爆で中国新聞や各社の広島支局、デルタにあった約40の写真館、官公庁や個人が所蔵していた写真も消し去られたからだ。市公文書館は被爆前の広島の様子を伝える写真を探し、市民からの複写提供も含め200枚にすぎない。現存が分かった松本さん撮影のオリジナル写真が「第一級の資料」とみて整理し、広く公開する理由でもある。

 米国帰りの松本さんの手になる写真が、被爆前の広島の人々と息吹を世紀を超えてよみがえらせる。

(2009年1月3日朝刊掲載)

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