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写真集「LIVING HIROSHIMA」が語る惨禍と復興
■編集委員 西本雅実
1949年に刊行された写真集「LIVING HIROSHIMA」。原爆に関する出版も検閲した米軍の占領期に、どう作られたのか。反響はどうだったのか。関係者や資料を追った。ヒロシマを初めて紹介しながら忘れられた写真集の全容や、見過ごされてきた課題が浮かび上がってきた。
そもそもは県観光協会が「グラフひろしま」と題して企画した。瀬戸内海文庫が制作に当たることを伝える案内状が残っている。市立中央図書館が所蔵する「峠三吉資料」の中にある。後に「原爆詩集」で知られる峠は同文庫で働いていた。
「『アトムヒロシマ』と広島縣のもつ世界の公園『瀬戸内海』を結びつけ(略)世界各国に紹介」「製作スタッフも現在日本で最高といわれる東京の文化社を選び文を中島健蔵氏に寫眞を木村伊兵衛氏ほか一流カメラマンに依頼」とうたっている。
文化社は、大戦中に対外宣伝グラフ誌「FRONT」を刊行した東方社で理事だった中島氏や、写真部長の木村氏らが終戦3カ月後の1945年11月に設立。写真集「東京 一九四五年・秋」を1946年4月に出していた。
戦前から名をはせた評論家や写真家らを被爆地に呼び寄せた瀬戸内海文庫は、広島市下流川町(現中区流川町)で1946年春に書籍販売から起こり、出版部門を備えた。創業者の田中嗣三(つぐぞう)氏は、戦時中は書籍組合の理事を務めていた。
「父は思いつきはいいのですが、お金のことは考えず母は苦労した」と、一人娘の金子英子さん(82)はそう述懐した。いとこで書店部門で働いた田中節代さん(87)は「食糧難の時代に東京から来た、えらい人たちを接待するのは大変でした」と付け加えた。ともに西区に住む。
文化社の撮影開始を、中国新聞社が発行した夕刊ひろしま1947年9月21日付が報じている。「FRONT」も担った、菊池俊吉氏(1990年に74歳で死去)と大木実氏(不明)が8月25日撮影を始め、市中心街から呉、尾道、鞆の浦を回る。木村氏は「復興が予想以上に盛んなのには驚きました」と取材に答え、9月18日から撮影に入った。
この夏に平和祭(現在の平和記念式典)は始まる。市人口は被爆直後の約13万6千人から22万4千人となり、市民は復興のつち音を求め「平和」を感じた。
撮影は菊池氏の記録によると10月17日に終了。しかし刊行は大幅に遅れる。米ソ対立下の検閲が立ちふさがった。それをうかがわせる田中社長の記述が、1948年5月印刷の「グラフヒロシマリポート」に残る。
刊行の遅れをわび、「このグラフ誌が(略)第三国に渡った場合、逆宣伝に利用されぬとも限りません」と記す。金子さんは、父が「あまり悲惨なものにならんようにせんといけん」と話したのを記憶する。
編集長を務めた中島氏は「回想の戦後文学」(1979年刊)で「広島の被害についての記事には、きびしい制約が加えられていた(略)苦渋にみちた仕事であった」と振り返っている。
「LIVING HIROSHIMA」(128ページ)と題した全編が英文の写真集は378点を収め、1949年5月に刊行される。
今回、写真を検証すると、木村氏撮影は49点の掲載が分かり、旧文部省の原爆調査団の記録映画班に同行した東方社出身の菊池氏と林重男氏(2002年に84歳で死去)が1945年10月に撮った62点も使われていたのを確認。復興の息吹とともに、被爆の惨状をいち早く伝えた写真集でもあった。
初版5千部、半年後には再版1万部に着手との記録が残る。しかし、金子さんらは「県などが進駐軍や外国人向けのお土産で渡し、店でも売った覚えはない」という。急激なインフレと経費負担が重なった瀬戸内海文庫は1950年に倒産し、写真集も忘れられていった。
被爆史に詳しい広島女学院大の宇吹暁教授は「占領期から被爆の実態を伝えようとする確かな試みはさまざまにあったのに、平和運動が党派的な主張を高め、そうした試みは米国の意向に沿ったものと黙殺した。占領期の文化的な活動はもっと掘り起こされ、見直されていい」とみる。
田中氏は負債を返すため大阪や東京で働き、帰郷をかなえて間もない1979年に一連の資料を県立図書館へ寄贈。段ボール箱に納めたままだったのが幸いし、状態を保った。4年前に移管された文書館で、「ヒロシマの国際化のさきがけ」(宇吹教授)の写真集と資料を確かめることができる。
※木村伊兵衛氏撮影の写真は、原画と密着プリントをそれぞれ所蔵する広島県立文書館と図書館から提供を受け、氏の著作権管理者の了解も得て掲載。
(2010年12月12日朝刊掲載)
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そもそもは県観光協会が「グラフひろしま」と題して企画した。瀬戸内海文庫が制作に当たることを伝える案内状が残っている。市立中央図書館が所蔵する「峠三吉資料」の中にある。後に「原爆詩集」で知られる峠は同文庫で働いていた。
「『アトムヒロシマ』と広島縣のもつ世界の公園『瀬戸内海』を結びつけ(略)世界各国に紹介」「製作スタッフも現在日本で最高といわれる東京の文化社を選び文を中島健蔵氏に寫眞を木村伊兵衛氏ほか一流カメラマンに依頼」とうたっている。
文化社は、大戦中に対外宣伝グラフ誌「FRONT」を刊行した東方社で理事だった中島氏や、写真部長の木村氏らが終戦3カ月後の1945年11月に設立。写真集「東京 一九四五年・秋」を1946年4月に出していた。
戦前から名をはせた評論家や写真家らを被爆地に呼び寄せた瀬戸内海文庫は、広島市下流川町(現中区流川町)で1946年春に書籍販売から起こり、出版部門を備えた。創業者の田中嗣三(つぐぞう)氏は、戦時中は書籍組合の理事を務めていた。
「父は思いつきはいいのですが、お金のことは考えず母は苦労した」と、一人娘の金子英子さん(82)はそう述懐した。いとこで書店部門で働いた田中節代さん(87)は「食糧難の時代に東京から来た、えらい人たちを接待するのは大変でした」と付け加えた。ともに西区に住む。
文化社の撮影開始を、中国新聞社が発行した夕刊ひろしま1947年9月21日付が報じている。「FRONT」も担った、菊池俊吉氏(1990年に74歳で死去)と大木実氏(不明)が8月25日撮影を始め、市中心街から呉、尾道、鞆の浦を回る。木村氏は「復興が予想以上に盛んなのには驚きました」と取材に答え、9月18日から撮影に入った。
この夏に平和祭(現在の平和記念式典)は始まる。市人口は被爆直後の約13万6千人から22万4千人となり、市民は復興のつち音を求め「平和」を感じた。
撮影は菊池氏の記録によると10月17日に終了。しかし刊行は大幅に遅れる。米ソ対立下の検閲が立ちふさがった。それをうかがわせる田中社長の記述が、1948年5月印刷の「グラフヒロシマリポート」に残る。
刊行の遅れをわび、「このグラフ誌が(略)第三国に渡った場合、逆宣伝に利用されぬとも限りません」と記す。金子さんは、父が「あまり悲惨なものにならんようにせんといけん」と話したのを記憶する。
編集長を務めた中島氏は「回想の戦後文学」(1979年刊)で「広島の被害についての記事には、きびしい制約が加えられていた(略)苦渋にみちた仕事であった」と振り返っている。
「LIVING HIROSHIMA」(128ページ)と題した全編が英文の写真集は378点を収め、1949年5月に刊行される。
今回、写真を検証すると、木村氏撮影は49点の掲載が分かり、旧文部省の原爆調査団の記録映画班に同行した東方社出身の菊池氏と林重男氏(2002年に84歳で死去)が1945年10月に撮った62点も使われていたのを確認。復興の息吹とともに、被爆の惨状をいち早く伝えた写真集でもあった。
初版5千部、半年後には再版1万部に着手との記録が残る。しかし、金子さんらは「県などが進駐軍や外国人向けのお土産で渡し、店でも売った覚えはない」という。急激なインフレと経費負担が重なった瀬戸内海文庫は1950年に倒産し、写真集も忘れられていった。
被爆史に詳しい広島女学院大の宇吹暁教授は「占領期から被爆の実態を伝えようとする確かな試みはさまざまにあったのに、平和運動が党派的な主張を高め、そうした試みは米国の意向に沿ったものと黙殺した。占領期の文化的な活動はもっと掘り起こされ、見直されていい」とみる。
田中氏は負債を返すため大阪や東京で働き、帰郷をかなえて間もない1979年に一連の資料を県立図書館へ寄贈。段ボール箱に納めたままだったのが幸いし、状態を保った。4年前に移管された文書館で、「ヒロシマの国際化のさきがけ」(宇吹教授)の写真集と資料を確かめることができる。
※木村伊兵衛氏撮影の写真は、原画と密着プリントをそれぞれ所蔵する広島県立文書館と図書館から提供を受け、氏の著作権管理者の了解も得て掲載。
(2010年12月12日朝刊掲載)
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