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原爆記録写真

ヒロシマの記録 被爆からの復興

■編集委員 西本雅実

市民ぐるみ「一大事業」 

 広島市の上空で1945年8月6日にさく裂した1発の原子爆弾により、30万を超す人間が被爆した。死者はその年末までに14万プラスマイナス1万人(市が1976年に国連へ提出した推計数)に上り、爆心直下から半径2キロにあった建物4万5100余件はほぼ全壊全焼した。ヒロシマの歩みは屍(しかばね)の世界から始まった。原爆を体験し、初の公選市長に就いて復興に努めた故浜井信三氏は「理想都市広島を建設してはなむけにしたい」と誓った。それは、いばらの道を歩くような営みであった。被爆からの復興を中国新聞社が記録してきた写真とともにたどる。

 東区牛田本町で酒店を続ける田中俊明さん(87)は、廃虚の街でいち早く商売を再開した1人だ。今はビルの谷間となった紙屋町交差点の南側でテント生活をしたころの写真を取り出して「生まれたところだし、他に行くところはなかったからねぇ」と振り返った。生家の細工町は爆心地となり両親と妻、1歳の長女を失った。自らは召集で陸軍船舶司令部(南区)にいた。

 1945年12月からテントで寝起きし、翌年2月に店舗兼用の10坪(33平方メートル)足らずのバラックを建てた。しょうゆ、野菜、酒を扱う合同配給所を無事だった店主らと開いた。「水道は勝手に出ていた。電気は器用な友達が引っぱってきてくれた」。ただ、お客さんがいなかった。

 受け持ちの大手町と袋町学区での配給対象者は記憶する限り63人。うち半分は市役所職員の登録だった。追いはぎ、スリ、短銃の撃ち合いも珍しくなかった。落ち着きとにぎわいを取り戻すのは「バスセンターができたころ」というから被爆から12年後だ。

 中区江波東に住む吉川生美さん(83)は原爆ドームそばで土産物店を営んだ。

 夫の清さん(1986年死去)は広島赤十字病院に入院中の1947年、米国を代表する雑誌ライフから取材され、傷跡のひどさに「原爆ナンバーワン」と紹介された。国内外からの面会が続いたが、1951年退院すると夫婦2人行く当てはなかった。

 「雇ってくれるところもなく、それで店を始めたんです。吉川は意地でもはい上がってやるぞと言いました」。名付けて「原爆1号の店」から被爆者運動は起こり、広がった。ドームを含む平和記念公園(12.2ヘクタール)が整い、市の「聖域化構想」による立ち退き要求で1969年店は閉じる。

 被爆からの復興とは何だったのか。市の被爆40年史と50年史の編さんに当たった松林俊一さん(61)=安佐北区亀崎=は「いわば”どすこい”的な感覚、市民ぐるみ自らの肉体と力を振り絞って成し遂げた一大事業」とみる。

 顧みれば、当時は市長も議員も汗をかき、国をも動かした。それが、国内初の住民投票で91%の賛成を得て四九年に公布された広島平和記念都市建設法に実る。

 旧軍用地の無償譲渡(34ヘクタール)や転用への道が開け、平和記念公園の建設などは補助率が引き上げられた。もっとも復興対象区域は、デルタ地域の3分の2に及ぶ1060ヘクタール。日々を生き抜くのが精いっぱいの市民からは、平和記念都市建設は時には反発を買った。苦難が続いた。

 松林さんは、被爆からの復興という営みにヒロシマのDNA(遺伝子)があると言い、こう問い掛ける。

 「死者の再生も、被爆による心の傷の回復もあり得ない。だからこそ先人たちは世界に平和を表現する街づくりに立ち上がった。その力量と財産を今、受け継いでいると言えるだろうか」。復興の記憶をよみがえらせることは、未来への継承でもある。

(2005年4月30日朝刊掲載)

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