×

原爆記録写真

8・6直後 台風の爪痕 きょう「枕崎」67年 フィルム現存

 原爆の惨禍に見舞われた直後の広島を67年前の1945年9月17日に襲い、2千人を超す死者を県内にもたらした枕崎台風の水害も記録した、写真のネガフィルムが現存していた。当時、広島管区気象台の技術主任だった北勲さん(1911~2001年)が撮影。安佐北区に住む三男の北信彦さん(67)が、広島市江波山気象館(中区)にネガ17枚を寄贈していた。(編集委員・西本雅実)

 直筆のメモも残っており、「撮影 昭和20年9月末頃」「フィルム ブロニー判1/2」に続き、各撮影場所を明記している。

 うち4枚は、台風の後に欄干が落ちた住吉橋や、中国軍管区司令部があった基町の廃虚など広島デルタの惨状を撮影。12枚は、江波山の土砂崩れや、太田川支流の三篠川の出水で崩壊した国鉄芸備線の第一三篠川鉄橋(安佐北区)や、濁流にのまれた深川村(同)などの台風被害を記録している。残り1枚は人物写真。太田川流域の枕崎台風の被害写真は、国土交通省太田川河川事務所にも現物は残っていないという。

 北勲さんは45年8月6日、爆心地から約3・7キロの江波山にあった気象台で被爆。旧文部省が9月に編成した「原子爆弾災害調査特別研究特別委員会」の気象関係の調査に従事し、市内や周辺町村を歩いた。

 広島市が71年刊行した「広島原爆戦災誌」の編さんにも協力。第5巻資料編に「カメラを瓦礫(がれき)の町へ向けるようになったのは、その年の九月末頃から十月中旬頃まで(略)四十枚以上も撮影したであろう」と証言している。

災害想像させる

広島原爆に続く枕崎台風の被害を掘り起こしたノンフィクション「空白の天気図」の著者、柳田邦男さんの話
 北さんが撮った歴史的な写真を見たのは初めて。被爆後の情報途絶の中で襲来した台風災害がいかにすさまじいものだったのか、全体像をも想像させる貴重な資料だ。大震災と原発事故という直面している複合災害や、今後も起こりうる事態を考える上でも、1945年の広島の実態を見つめ直す必要があると思う。

枕崎台風
 1945年9月17日鹿児島県枕崎市付近に上陸し、広島県内各地で大規模な土石流などが発生。「広島県砂防災害史」によると、死者・行方不明者は呉市1154人、旧大野村(廿日市市)200人、広島市24人など計2012人に上った。気象台の電話回線が復旧しておらず、広島中央放送局も浸水するなど、情報が行き渡らず被害を拡大させた。

(2012年9月17日朝刊掲載)