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原爆記録写真

被爆直後 パノラマ現存 原医研 鮮明プリント所蔵 45年8・9月 国内外紙で一部分掲載

 1945年8月6日の原爆投下で壊滅した広島の惨禍を伝える5枚構成のパノラマ写真があった。一連のカットは国内外の新聞でいち早く使われたことも確認された。爆心地の東約900メートル。広島市上流川町(現中区胡町)の旧中国新聞本社から同盟通信(現共同通信)社大阪支社部員が8月中旬に撮影。鮮明なプリントを広島大原爆放射線医科学研究所が所蔵している。(西本雅実)

 各プリント(17×24センチ)をデジタル画像化してつなぐと、爆心地から半径2キロ内外が全壊全焼した広島デルタの東側の惨状が画角約150度で浮かび上がる。

 「惨禍の広島市 原子爆弾投下により瞬時に焦土と化し煙突一本残すのみとなった市街地の一部」。右端のカットは、ほぼ同じ説明が付いて終戦4日後の8月19日付の朝日、毎日新聞各東京・大阪本社版、読売報知(読売)、中部日本新聞(中日)から順次、全国の各紙で掲載された。

 焼け残った流川教会が写る左端カットは、「原爆のさく裂中心街」と米ニューヨーク・タイムズが9月2日付で紹介し、「原子病」が広がる恐怖を掲載した英デイリー・エキスプレス5日付が1面で大きく扱った。

 中央カットには、臨時県庁となった東警察署の前に人々の姿が見える。家族を捜したり救援物資を求めたりする人々とみられる。

 国策の通信社だった同盟は、大阪海軍調査団員として支社社会部の中田左都男記者が広島へ8月10日から11日に入り撮影したことが、大阪帝大浅田常三郎教授の手帳などから裏付けられている。それらを含む原爆記録写真は、米軍の接収に遭い73年、陸軍病理学研究所から病理標本やカルテとともに原医研へ返還された。

 広島壊滅のパノラマを成すオリジナルとみられるプリントが原医研にあるのを、同盟写真の検証に取り組む共同嘱託の沼田清さん(68)が見つけ、原爆資料館学芸員らと詳細を探った。同盟OBの証言から撮影は大阪支社の佐伯敬(たかし)写真部員の可能性もあるという。初掲載は8月19日にさかのぼる以上、学芸員らは「45年末までに確認されパノラマ43点でも撮影はいち早い時期の一つといえる」とみている。

(2016年8月3日朝刊掲載)