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原爆記録写真

原爆写真 57人が2571枚 1945年8月6日-年末に撮影 資料館、1819枚保存

※2007年8月14日付

 原爆が広島市に投下された1945年8月6日から年末までに撮られた原爆写真について、全体像が判明した。撮影者・遺族の協力や、市の原爆資料館などの資料を基に調べた結果、57人(陸軍写真班の団体を含む)が撮影し、少なくとも計2571枚が撮られていたことが分かった。うち1819枚を資料館が保存している。(編集委員・西本雅実)

全体像が判明

 被爆当日は、爆心地2・2キロの御幸橋一帯で市民の惨状を収めた5枚、原子雲が25枚、炎上する市街地が4枚(うち3枚は組み写真)、被災者を乗せて市郊外に向かうトラックが1枚の計35枚が極限状況の中で撮られていた。うち29枚が現存。

 未曾有の混乱に陥り、フィルムも欠乏していた最中、広範囲に記録していたのは陸軍船舶司令部写真班(南区)や、大阪から軍に同行するなどした新聞・通信社。

 同写真班は、沖合の似島に運ばれた全身やけどの兵士や、各国民学校の救護所で横たわる市民らを被爆翌日から収めた。撮影者が判明した分を含めて計78枚が残っていた。ネガは命令で焼却され、現存する写真は生々しく、多くが今も一般に公開されていない。

 報道で最も早く紹介されたのは11日付の毎日新聞大阪本社版に載った「健在の地下壕(ごう)」などの2枚。同盟通信大阪支社記者が10日に旧中国新聞本社屋上(中区胡町)から撮った廃虚の光景は、朝日、毎日、読売報知(読売)などの19日付をはじめ敗戦後に各紙で使われ、「広島市の惨状」を全国に伝えた。

 10月1日に旧文部省の原爆災害調査団と入った東方社のカメラマンは個人で最多の写真を撮り、同僚と計1115枚を記録。プリントは米軍に接収されたが、各自がネガを守り抜いた。

ヒロシマの記録 原爆写真の撮影者たち 惨状刻む「無言の証言」