雑魚場町
18年8月1日
建物疎開 大勢犠牲に
雑魚場(ざこば)町は、現在の広島市中区国泰寺町1、2丁目と小町の辺り。1965年に今の住居表示が実施されるまで、ありました。
被爆当時、西隣の国泰寺町に広島市役所がありました。市役所は空襲(くうしゅう)などの際、避難(ひなん)や救護を指示するなど重要な役割がありました。空襲で市役所に火が移るのを防ぐため、周囲の建物を壊(こわ)す「建物疎開(そかい)」が行われていました。
地域や職場、学校から動員された人々が大勢犠牲(ぎせい)になりました。原爆資料館(中区)が2004年に開いた企画(きかく)展によると、そこで作業していた国民学校や中学校など12校の2331人の約75%に当たる1749人が亡くなったそうです。
国泰寺町1丁目には疎開地跡の碑や、亡くなった女学生らを悼む慰霊碑があります。