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ヒロシマ用語集

学童疎開

空襲避け郡部で生活

 戦争が激しくなり、空襲(くうしゅう)を逃(のが)れるため、都市部に住んでいた国民学校3~6年(今の小学3~6年)が、学校ごと周辺部の寺や集会所に移りました。

 1944年6月に「学童疎開促進要綱(そかいそくしんようこう)」が閣議決定され、45年4月から広島市内の学校も疎開が始まりました。

 広島原爆戦災誌によると、市内41学校のうち36学校計約9千人が佐伯郡(現佐伯区など)や双三(ふたみ)郡(現三次市)などに疎開しました。

 家族と離(はな)れて、とても寂(さび)しく、夜中に寝床(ねどこ)で1人が泣き始めると、我慢(がまん)していた他の子どもたちも泣き、合唱になった、といいます。家に戻(もど)ろうと抜(ぬ)け出(だ)す子もいました。食べ物も不十分でひもじい生活が続きました。

 自らは助かったものの、原爆で肉親を亡くした子どももいます。