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ヒロシマ用語集

広島実践高等女学校

泣き声響いた救護所

 1941年、「広島商業実践(じっせん)女学校」として、井口村(現広島市西区)に開校しました。広島ガス(南区)と広島電鉄(中区)の前身、広島瓦斯電軌(がすでんき)が、地域貢献(ちいきこうけん)のためにつくりました。43年、「広島実践高等女学校」に改称(かいしょう)されました。

 原爆戦災誌によると、原爆投下後、学校のあった井口村にも、多くの負傷(ふしょう)者が避難(ひなん)してきました。同女学校は、応急救護所になりました。

 皆実町(現南区)にあった広島電鉄家政女学校の生徒たちも被爆後、この女学校に避難してきました。

 証言集「電車を走らせた女学生たち」には、「やけどやけがされた学生たちでいっぱいで、『痛(いた)い、痛い』の泣き声ばかり」「たくさんの方が毎日のように亡(な)くなった」「講堂に人間の焼けただれた臭い、血の臭いが汚臭を放ち…」など、同女学校での悲惨(ひさん)な状況(じょうきょう)が記されています。

 同女学校は現在、広島修道大付属女子中・高になっています。