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ヒロシマ用語集

広島市立第一高等女学校

「原爆」の文字使えず

 広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高、広島市中区)は、市内で最も多くの原爆犠牲(ぎせい)者を出した学校として知られています。

 1945年8月6日、木挽(こびき)町(現中区中島町)一帯で建物疎開(そかい)作業をしていた1、2年生(12、13歳)541人と、教職員7人が被爆し、全員亡くなりました。ほかの場所にいた上級生や教職員を含(ふく)めると、原爆で命を落としたのは、676人に上ります。

 原爆慰霊碑(いれいひ)は48年、校庭に建立されました。碑には3人の少女の姿(すがた)が刻(きざ)まれ、真ん中の子は、相対性理論(りろん)を表した「E=MC2」と書かれた箱を持っています。当時の日本は連合国軍の占領(せんりょう)下。原爆被害(ひがい)について表立って話しにくく、原爆という文字が使えないため、原爆製造にも応用されたアインシュタインの相対性理論を記したと言われています。

 慰霊碑は57年、平和記念公園(中区)に近い平和大橋西詰めの平和大通りの緑地帯に移されました。市女の生徒たちが建物疎開作業をしていて被爆死した場所の周辺です。

 市女は48年に廃止(はいし)され、今は舟入高になっています。