×

ヒロシマ用語集

復興

 被爆地の復興には、何より広島と長崎の人たちが力を尽くしました。原爆投下後も、街の機能を取り戻すため自らの負傷を押して数え切れない人たちが働いたのです。例えば広島電鉄の運行再開が象徴的です。市内線の123両のうち108両が被災、線路も大打撃を受けましたが、わずか3日後に一部の線路に一番電車が走りました。大人だけでなく、戦時中から運転士や車掌として働いていた10代の少女たちも頑張りました。

 海外の支援もありました。スイス人で赤十字国際委員会のマルセル・ジュノー博士は広島に医薬品を届け、救護所で多くの人を治療しました。

 戦後の暮らしも苦労が続きました。市民は焼け野原にバラックと呼ばれた粗末な小屋を建て、暮らし始めます。ここでも家のない人のため住宅を建設した米国人のフロイド・シュモーさんなど国内外の善意に助けられました。

 広島の人たちの願いで、被爆4年後には「広島平和記念都市建設法」という法律ができます。それを生かして平和記念公園が生まれ、1955年に原爆資料館が開館。世界中の人たちが平和を願う場となりました。