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ジュニアライター発信

Peace Seeds~10代がまく種~ <10> 原爆映画 心揺さぶる映像の力

 広島に投下された原爆を題材にした映画は、これまでたくさん作られてきました。まだ、あちこちに被爆の痕跡(こんせき)が残っていた広島の街で、地元の人々が多数協力して製作された新藤兼人監督(しんどう・かねとかんとく)の「原爆の子」。原爆を知らない若い世代によって現在の広島で撮影された深作健太(けんた)監督の「夏休みの地図」…。「原爆映画」は具体的な映像によって、ヒロシマの心を強く、広く訴えてきました。

奪われた日常 胸痛む

映画「原爆の子」を観賞

 私たちジュニアライターは、広島を舞台にした事実上の原爆映画の第1号「原爆の子」を、広島市映像文化ライブラリー(中区)で見せてもらいました。

 映画の設定は、被爆から7年後の広島。実際に復興途中の街でロケが行われていて、あちこちに残るがれきや廃虚に、原爆の威力(いりょく)のすさまじさを感じました。

 物語は被爆時、幼稚園(ようちえん)の先生だった女性が、かつての園児たちを訪ねる形で展開されていきます。生き残った子どもたちは、多くの苦しみや悲しみの中で、必死に今日を生き抜こうとしていました。原爆で親を失った孤児(こじ)も登場します。原爆が当たり前の日常を奪(うば)い、人々を苦しめ続けていることに、胸が痛みました。

 最後のシーンでは、原爆を投下したB29を連想させる飛行機のエンジン音が青空に響(ひび)きます。戦争が終わっても、人々の記憶(きおく)は残り続けるのです。

 この映画によって、原爆の恐ろしさをより具体的に知ることができました。それを伝えていくのは、原爆の子たちと同年代の私たちの使命だと感じました。(高1林航平、岡田春海)

街の力 製作関わり感じた

広島フィルムコミッションの西崎さん

 広島を舞台(ぶたい)にした映画やテレビ番組の撮影(さつえい)を支援(しえん)している広島フィルムコミッションの西崎智子さん(48)に、これまで携わった「父と暮(くら)せば」(2004年、黒木和雄監督)「夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国」(07年、佐々部(ささべ)清監督)「夏休みの地図」(13年、深作監督)など原爆映画の製作の模様を取材しました。

 「夕凪の街―」のロケでは監督やスタッフが、原爆の子の像に歌をささげる修学旅行生を見て涙(なみだ)を流し続けたそうです。また、やんちゃだった若い男優は広島にロケに来て以来、毎日平和記念公園を訪れ、顔つきが変わっていったといいます。

 「原爆について何も知らなかった人たちが広島に来て心を揺さぶられ、もっと伝えなくてはと感じています。広島の街にはパワーがあります」と西崎さん。テレビやインターネット上だけで公開される国内外の作品を含(ふく)め、現在も多くの原爆映画が作られているそうです。

 「最近の原爆映画は被爆後の惨状を再現するのではなく、高齢化(こうれいか)した被爆者に代わって自分たちが頑張(がんば)らなくてはというメッセージがある。後世に伝えていくために映像化はとても大切です」と話しています。(高1河田紗也加)

広島市映像文化ライブラリー 佐藤武主幹に聞く

時代とともに表現変化

 原爆映画の歴史や、時代による表現の変化について、広島市映像文化ライブラリー(中区)主幹の佐藤武さん(54)=写真=に聞きました。

 初めての本格的な原爆映画は1952年製作の「原爆の子」(新藤監督)です。それまでは、占領(せんりょう)軍に原爆の映画化が禁じられていたのです。53年の「ひろしま」(関川秀雄監督)とともに、被爆の惨状(さんじょう)を表現の中心に据(す)えた作品。どちらも地元の協力で撮影、「原爆の子」は世界的な反響を呼びました。

 60年代からは、男女の愛を通して原爆症の苦しみなどを描く映画が製作されました。57年の「純愛物語」(今井正監督)や66年の「愛と死の記録」(蔵原惟繕(くらはら・これよし)監督)などです。

 最近は2007年の「夕凪の街 桜の国」(佐々部監督)、13年の「夏休みの地図」(深作監督)など若い世代の姿を通じて次世代への継承(けいしょう)の大切さを訴えています。

 劇場で公開された原爆映画は40~50本。時代とともに変化してきたのです。(高1松尾敢太郎、写真は中1藤井志穂)

(2014年10月13日朝刊掲載)

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