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ジュニアライター発信

戦争 二つの国のはざまで 元ジュニアライター佐々木さんが聞く 日系2世の元米軍兵・熊本さん 「国の枠を超え仲良く」

 中国新聞のジュニアライターを経て、米国カリフォルニア州の高校に通う佐々木玲奈さん(17)が、現地で暮らす広島出身の日系2世男性にインタビューし、戦時中の米国での暮らしや、戦後に米軍兵として広島で過ごした思い出を聞いた。

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 「わりゃ、爆弾を落としたのか」。現在、米国カリフォルニア州に住む日系2世の熊本増男さん(93)は、米国陸軍情報部(MIS)のメンバーとして終戦間もない1945年秋、広島を訪れた際、そう祖母に言われました。

 増男さんはロサンゼルス出身。広島県坂町と呉市出身の両親の間に生まれました。米国の高校を卒業した後は、農家の長男として家業を手伝っていました。

 真珠湾攻撃(1941年12月)を機に、ほとんどの日本人は強制収容所へ送られました。家に来た連邦捜査局(FBI)に、父増造さんが「帝国人」として逮捕されたことを今でも覚えているそうです。その後、一家は全員収容所送りとなります。ロサンゼルス近郊のサンタ・アニタ仮収容所で3カ月ほど過ごした後、アーカンソー州のローワー強制収容所で約3年間、母久代さんと弟、妹2人と過ごしました。

 44年12月、米国籍の増男さんは陸軍へ徴兵され、日本語が話せる日系人で構成されたMISへ配属されました。その後、3歳下の弟勝実さんも入隊しました。

 主な仕事は日本語と英語の通訳と翻訳。終戦を迎えた約2カ月後、フィリピンから東京に転属し、さらに出身地の広島に配属されました。広島市内まで迎えに来てくれた叔母に連れられ、初めて呉の祖母を訪ねました。しかし祖母は最初、日本人でありながら米軍に所属していた増男さんをよく思っていなかったそうです。

 なぜ原爆を落としたのか―。仕事中によく質問されました。うまく答えられませんでした。未知の兵器だった原爆について米軍兵という立場で通訳するのは複雑でした。

 また、広島では米国に移住した日系人は虐殺されたと思われていました。増男さんは強制収容所での生活ぶりや、虐殺などなかったことなどを説明し、人々を安心させました。さらに、米軍の配達機関を使い、住所が分かれば無償で手紙のやりとりを代行しました。家族の安否を知り、涙する人もたくさんいたそうです。

 軍での通訳業務は不定期で、休みが3、4日続くときにはあめやチョコレートを軍の売店でたくさん買い、おなかをすかせた子どもたちに配りました。お金がなくて困っている人に「今日はこれで何か食べなさい」と100円札を渡したこともありました。増男さんの信念として、お礼は絶対に受け取りませんでした。

 増男さんが今でも親に感謝していることがあります。「乗り気でなかった日本語学校に、親の言いつけ通りに通っていたおかげで、最前線の部隊に配属されなくて済んだ」。また、戦争を知らない若者たちには「国という枠にとらわれず、互いを批判せず仲良くしてほしい」と願っています。日本と米国という二つの国のはざまに立ったからこそ、国同士の争いが無実の若者たちを傷つけることを知っているのです。

(2014年9月1日朝刊掲載)

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