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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第12号) 原爆で失われた文化財

愚かな戦争 歴史粉々

 70年前、1945年8月6日の原爆投下によって、広島では多くの命が奪(うば)われ傷つけられました。人命とともに、文化的価値のある建造物や史跡(しせき)も失われました。郷土の先人の営みを物語る存在でした。

 被爆の痕跡(こんせき)をとどめる建物などを紹介(しょうかい)するガイド本や地図はありますが、消えてしまったものは、なかなか注目されないのではないでしょうか。広島大大学院の三浦正幸教授(60)=文化財学=のアドバイスを受けながら、原爆で破壊(はかい)されてしまった広島市内の文化財や史跡について学び、現地を歩きました。

 かろうじてかつての姿を想像させる石組みが残っていたり、戦後に復元された建物に替わっていたり…。一部を残して別の地に移った例もありました。

 戦争、そして原爆は、先人から受け継(つ)ぎ積み重ねてきたものを崩(くず)してしまいます。今回、それぞれの現場に立って、戦争の罪と愚(おろ)かさを実感しました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの49人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

愚かな戦争 歴史粉々

① 広島城天守(中区基町)

 毛利輝元(もうりてるもと)が1592年ごろから99年にかけて築き、約350年にわたり広島の街を見守ってきた広島城。その天守は原爆で倒壊(とうかい)しました。

 広島城は、関ケ原の戦い(1600年)以前の城では大阪城に次ぐ規模でした。仮に残っていたら天守は姫路城(兵庫県)や松本城(長野県)を抑(おさ)えて最古。「鉄板張りで歴史的価値の高い中御門(なかごもん)などもあり、『国宝・広島城』だったでしょう。世界遺産の可能性もあった」と三浦教授は推測します。

 天守は全壊(ぜんかい)したものの火災は起きませんでした。柱材などは、原爆で住まいを失った市民が造るバラック建物の材料や燃料になったそうです。広島城の玉置(たまき)和弘主任学芸員(47)は「復元も可能だったかもしれないが、被爆直後にそんな余裕(よゆう)はなかったはず。城は多くの人の生活を助けたともいえる」と話します。(高1正出七瀬、中1斉藤幸歩)

② 広島大本営跡(中区基町)

 大本営は戦争を進める上での最高統帥(とうすい)機関です。1894~95年の日清戦争の際、広島に置かれ、7カ月余り明治天皇が滞在(たいざい)しました。当時の広島は、東京から鉄道がつながり、宇品港も完成。戦地へ人と物資を送る拠点(きょてん)だったことが背景にあります。帝国議会の仮議場も設けられ、「臨時首都」のようでした。

 第5師団司令部庁舎を改築した建物は、明治初期の洋風木造建築。日清戦争が終わり使われなくなった後も、広島城天守とともに社会見学コースになっていたそうです。「軍都広島の歩みを語る実物資料」(玉置主任学芸員)でした。

 残っていたら、その姿が戦争の歴史をイメージさせたでしょう。しかしその建物もまた、原爆という武力で破壊されました。今は礎石が残るのみ。ただ、そこに大本営が置かれ、日清戦争時の拠点だったという事実は変わりません。(高2谷口信乃、高1正出七瀬)

③ 広島東照宮(東区二葉の里)

 徳川家康の霊(れい)を祭るため、1648年に広島藩主(はんしゅ)の浅野光晟(みつあきら)によって造営されました。精巧(せいこう)な彫刻や色鮮やかな装飾が各建物に施されていました。原爆の熱線で、檜皮(ひわだ)ぶきの本殿、中門、拝殿が焼失。正面の唐門(からもん)や翼廊(よくろう)は焼けなかったものの衝撃(しょうげき)で傾(かたむ)き、2012年に解体修理を終えました。

 造営時からの主な施設が被爆まで現存していました。各建物がそろうのは全国の東照宮の中でも珍(めずら)しい例でした。

 被爆直後、鳥居下にはテントが張られ、臨時の救護所になったそうです。久保田訓章(のりあき)宮司(82)は「建物の焼失は惜(お)しいが、原爆で多くの人が亡くなった中、一部が残っただけでも良しとしないと…」と話します。(高2谷口信乃)

④ 清風館(縮景園=中区上幟町)

 縮景園は広島藩主の浅野家の庭園として江戸時代初めに造られました。園の中央にあったのが清風館。1780年代の建築とされ、主に茶の接待などに使われていました。数寄屋(すきや)造りで、こけらぶきの屋根。柱も細く、優美できゃしゃな構造でした。頑丈(がんじょう)とは言えない建物ですが、150年以上大切に守られてきました。

 原爆で園は壊滅、清風館も焼失しました。資料の乏(とぼ)しい中、1964年に復元されました。江戸期の建物がそのまま残っていたなら当時の建築技術を正確に伝える何よりの教材だったはずです。(高1芳本菜子)

⑤ 国泰寺(中区小町、中町)

 広島の城下町を代表する広大な敷地(しきち)の寺でした。本堂や藩主の浅野氏の墓所などが原爆で焼失しました。寺は1978年に西区己斐上に移転。跡地にはホテルなどが建ちました。境内にあった愛宕(あたご)池が残り、当時をしのばせます。今の住職の野間英明さん(64)は「戦争はだめ。人が人を殺すようなことがあっていいはずがない。文化も破壊する。たくさんのおかげで生かせてもらっていることを皆さん忘れないで」と語ります。(中2川岸言統)

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取材終えて

 縮景園に今ある清風館は、古い絵はがきの姿と同じよう。でも、ベテラン庭園技師は「復元する時、細部は想像に頼(たよ)るところがあったのでは」と言います。実物が急になくなり、構造の細部ははっきりしません。これは文化継承(けいしょう)の面での損失。戦争、原爆の大きな罪です。(芳本)

 広島東照宮はことし10月、家康没後400年で「通り御祭礼(ごさいれい)」を催し、みこし行列が登場します。被爆後も奇跡(きせき)的に残ったみこしです。50年ごとの式年祭に合わせた行列の実施は何と1815年以来。伝統の重みを感じます。戦争でその歴史が断たれることがあってはならないと思いました。(谷口)

 人々を悲しませ、人々が築いた文化を壊すのが戦争です。国泰寺の野間住職は「人を傷つけることがあってはいけない」と話しました。スケールは違いますが、原爆といじめ、どちらも人や、人の心を傷つける点で同じだと気づきました。(川岸)

 原爆は広島の歴史を伝える多くのものを奪いました。しかし、跡地でも復元建物になっていても、そこに存在した歴史的事実は消えません。たとえ姿は見えなくても何かを訴えるものもあるのでは。見過ごしているヒロシマがほかにもあるのでは―。そんなところにも目を向けられるようになりたいです。(正出)

 地図・現在の写真は高2山下未来、同アリエル・ドゥタンプル、高1芳本菜子、中2川岸言統が担当しました。

(2015年6月25日朝刊掲載)

【編集後記】
 広島城の玉置主任学芸員の話が興味深かったです。広島城は焼失ではなく爆風で倒壊したと初めて知りました。木材が残っていて復元もできたかも、と聞かされ、なぜそうしなかったのかとも思いました。しかし、被爆直後の大混乱の中、それらの木材は市民が生き延びるために使われた、という説明に納得しました。(斉藤)

 「国泰寺」と聞くと、中学や高校を思い浮かべるだけで、お寺そのものはよく知りませんでした。かつてお寺があった場所には愛宕池の跡しかなく、ビルなどが建っていました。爆心地から500㍍余り。原爆は、人々が守ってきた国泰寺の建物やその伝統を一瞬で消し去りました。たくさんの人間の命を奪っただけでなく、地元の人に愛された施設も奪い去ったのだということも忘れないようにしたいと思いました。(川岸言統)

 原爆によって見ることができなくなった戦前の広島。「毛利時代からのお城、見たかった」で始めた取材でしたが、けっして残ったものだけが時代の証人ではない、と今は思います。形はなくとも、その歴史が私たちに多くのことを教えてくれています。(正出)

 広島城や縮景園を取材して、知っているようで知らないことがたくさんある事に気がつきました。広島城が残っていれば国宝になっていただろうこと、縮景園の清風館の再建には想像で造った部分があったらしいこと…。人の命だけでなく、人々が大切に守り続けてきた文化・建造物も奪ってしまう戦争そして原爆は、決して繰り返してはならないと考えさせられました。(芳本)

 留学生の私にとって、ジュニアライターの活動は広島の文化を学ぶよい機会です。今回は写真を担当しました。縮景園の清風館は、原爆で焼けた後に再建されています。最初の姿を見ることができないのは残念です。しかし、これらの今の姿からも、戦前の広島の歴史を考えることができます。それはとても大事なことだと思います。(アリエル・ドゥタンプル)

 2回続けて広島城を訪れました。1回目はジュニアライターとは別の活動でしたが、その機会にも大本営が広島に置かれた経緯などを学びました。数日後に「ピース・シーズ」の取材で再び訪れ、あらためて大本営跡に立つと、戦争の歴史がとても生々しく感じられました。軍事行動を進めるための国の拠点施設。当時だったらとても立ち入ることのできなかった場所です。時の経過と歴史の重さが胸に迫ってきました。(谷口)

 今回取り上げた建物の位置を示す地図の原案を担当しました。これらの施設は、私が経験した平和学習では出てこず、原爆と結びつきませんでした。以前に留学生を広島城に案内したときも、私は原爆のことは説明しませんでした。考えてみれば、どれも爆心地から半径2㌔余りまでにあり、大変な被害を受けたと想像がつきます。今は見えていない70年前の姿をイメージする大切さを感じました。(山下)

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