Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第7号) ホロコーストを学ぶスタディーツアー
15年4月9日
中国新聞ジュニアライターの高校生2人は、第2次世界大戦の悲劇の象徴(しょうちょう)の一つ、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺(だいぎゃくさつ))について学ぶ欧州(おうしゅう)スタディーツアー(主催(しゅさい)・公益財団法人ヒロシマ平和創造基金)に参加しました。被爆地広島の若者が、ナチス・ドイツの人種差別政策で罪なき人々が犠牲(ぎせい)になった現場を巡り、平和な世界を築くための役割について考えを深めました。
高校3年の河野新大(あらた)さん(17)と、高校2年の鼻岡舞子さん(16)。広島県内の大学生6人と一緒に、ポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所跡を見学しました。遺品の数々に人々の命を思い浮かべ、広大な敷地(しきち)を歩くことで犠牲者の絶望感と戦争の狂気(きょうき)を実感。生還(せいかん)者の証言にも耳を傾(かたむ)け、記憶を受け継ぐ決意を新たにしました。オランダに移動した後は、アンネ・フランクが家族らと隠(かく)れた家を訪問。自由と平和を願い続けた少女に、自らの姿を重ね合わせました。
ツアーの成果は、5月31日に広島市中区の広島国際会議場で開く帰国報告会でも発表します。
<ピース・シーズ>
平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの49人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。
紙面イメージはこちら
現地での主な活動
(3月22~29日)
ポーランド
オシフィエンチム市
・アウシュビッツ強制収容所跡(現アウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館)見学
・博物館の副館長と面会
・館内にある「絵の展示室」を見学
・収容所生還者の証言を聞く
・現地の高校生・大学生と意見交換
・ヤヌシュ・フビエルト市長に面会。平和首長会議の会長からのメッセージを手渡す
オランダ
アムステルダム市
・アンネ・フランクの隠れ家を利用した資料館「アンネ・フランク・ハウス」を見学。ロナルド・レオポルド館長と面会
・資料館の職員やボランティアたちと意見交換
・アムステルダム市役所を訪問。平和首長会議の会長から市長宛てのメッセージを届ける
刈(か)り取られた大量の髪の毛、はきつぶされた靴(くつ)の山…。犠牲者の遺品が、数え切れないほど展示されていました。一つ一つに宿っていた人の命が奪(うば)われたと想像すると、感情が止まるほどの衝撃(しょうげき)を受けました。こんなに多くの人が殺されたとは信じたくない―。しかし、これがホロコーストの現実でした。
初めて訪れた絶滅(ぜつめつ)収容所。ドイツ語で「ARBEIT(アルバイト) MACHT(マハト) FREI(フライ)(働けば自由になる)」と書かれた第1収容所の正門をくぐると、ポプラ並木や赤れんがの建物群が目の前に広がります。ある西洋の町にいるかのような気分です。しかし、跡地(あとち)にある国立博物館で唯一(ゆいいつ)の日本人ガイド中谷剛さん(49)の説明に耳を疑いました。「環境(かんきょう)を考えて、ナチスは木を植えていた」。人の命より収容所の景観や環境を優先した身勝手さに、怒(いか)りを覚えました。道沿いにある花壇は、連行した人に花を見せて油断させ、死への恐怖(きょうふ)を感じさせないように造ったそうです。
展示品のうち、三つ編みのまま残された髪(かみ)の毛に目が留まりました。私たちと同年代の女の子でしょう。おしゃれに気を使い多感な年頃(としごろ)だったはず。せっかく伸ばした髪の毛を無残に刈り取られたと思うと許せません。「これを一つの塊(かたまり)と見るか、一人の人として見るか」。中谷さんの言葉が、胸を打ちます。
ガス室に入ると、体感温度が一気に下がりました。コンクリートで囲まれた四角い部屋。天井(てんじょう)に開いた小さな穴から青酸殺虫剤(せいさんさっちゅうざい)チクロンBが投げ込まれ、殺されたのです。上へ上へと空気を求めて手を伸ばし、最後には倒(たお)れた人たちが積み重なり、ピラミッドのような形になったそうです。
すぐ隣に火葬場(かそうば)があり、1日約600人が焼かれました。火葬が次第に追い付かなくなり、野焼きされることもあったそうです。遺体を運ぶ仕事もユダヤ人に課されました。次は自分が死ぬかもしれない恐怖、死んだ仲間を火葬場へ運ぶ悲しさ。私たちの想像が及ばないほど感情が揺(ゆ)れ動いたはずです。
収容された人の顔写真がたくさん並んでいました。男女関係なく髪は短く、遠くを見つめるような人、悲しそうな目の人、生きる気力を失ったような人…。ほとんどの人が殺されたという事実が身に迫(せま)ってきました。
第2収容所のビルケナウは「第1」から約3キロ離れた湿地帯(しっちたい)に突然(とつぜん)現れます。多い時で約10万人が収容された「生の終着点」に約120棟の建物が残ります。静かに、しかし強烈(きょうれつ)に歴史を物語っています。
ユダヤ人たちを運んだ鉄道の引き込み線に沿って歩くうち足が重くなりました。1両に約200人も詰め込んだ家畜(かちく)用の貨車が止まっています。医師が「おまえは右」「左」と、降ろされた人の生死を振り分けた降車場です。「ついに来てしまった」「これからどうなるんだろう」―。人々の嘆(なげ)きが聞こえる気がして、どうしようもない悲しさに襲(おそ)われました。
総面積が平和記念公園(広島市中区)の10倍以上の1・4平方キロもある広大な敷地。ガス室は4カ所ありましたが、旧ソ連軍が解放する前にナチスが証拠隠滅(しょうこいんめつ)のため爆破(ばくは)しました。今はれんがの残骸(ざんがい)があるだけです。
まるで「工場」のように人を殺す「作業」を繰(く)り返していた収容所。ナチスはなお拡張計画を立てていたそうです。未来ある子どもや罪のない人々を殺す必要がどこにあったのか。全く理解できません。
威圧(いあつ)感のある監視塔(かんしとう)に上って、当時の監視兵の視線を想像しました。眼下に並んだ大勢の人々を「絶滅すべき民族」と捉え、自分と同じ人間として見ることは決してなかったのだろう。だからこそ、残酷になれたのではないのか。
こんな過ちは二度と繰り返してはいけません。本物の「証言」に触(ふ)れ、その思いを強くしました。「過去を知ることは、今を生きる私たちが次の選択(せんたく)をする時に生きるのではないか」。中谷さんの言葉は、私たちに課題を与(あた)えてくれました。歴史をきちんと学び、未来のために正しい選択ができる大人になりたい。そう心に決めました。(鼻岡舞子、16歳、河野新大、17歳)
「生きる希望を捨てなかったから、生き延びられた」。アウシュビッツ強制収容所から生還したポーランド人のバツワフ・ドゥゴボルスキさん(89)は過酷(かこく)な労働に耐(た)え、脱出(だっしゅつ)できた理由をこう振り返りました。歴史家として活動する今、過去を冷静に見つめ直す大切さを訴(うった)えています。
「138871」。袖をまくって見せてくれた左腕に、第2収容所のビルケナウに連行された時に刻まれた番号の入れ墨が、いまだに青くにじんでいます。名前という人間の尊厳が「はぎ取られ」、労働力としてしか見なされなかった屈辱や悲しさが伝わります。
ナチスへの抵抗軍(ていこうぐん)に入ったことで逮捕(たいほ)され、17歳だった1943年、ビルケナウに連行されました。ポーランド人だったため、列車から降りた後、生死の選別を受けることはありませんでしたが、番号は刻まれました。
しかしユダヤ人は選別されました。収容後に見たガス室に連れて行かれる人々は、自分がどうなるか分かっていたようです。「生きようという希望を持っているようには見えなかった。望みをなくした人に、どう声をかけたらいいか分からなかった」と明かします。
食事は朝と夕に小さなパンとマーガリン、仕事中に1杯のスープだけ。後に、しっかり働けるよう家族からの食料の小包が受け取れるようになりました。しかしユダヤ人は受け取りが許されませんでした。同じ棟に入ってきたユダヤ人も、3カ月後、ガス室に連れていかれました。
排水溝(はいすいこう)を掃除(そうじ)する班にいた時です。不衛生なのに体を洗う水は冷水しかなく、病気が流行しました。肺炎(はいえん)になり病棟へ。1週間意識がなく、体重は15キロ減り精神的に追い詰められました。しかし仲間の励(はげ)ましで回復に向かいました。別の病棟に移され、病人の入浴を担当する班で働くことに。暖炉(だんろ)二つとシャワーがあり、生きることができました。
生還できたのは、偶然が重なり脱出に成功したからといいます。45年1月、収容者を西へ移す命令が出ました。衛生係として病人と共に残りましたが、「証人になるから殺される」と直感しました。しかしナチスの親衛隊(SS)は先に車で逃(に)げ、しかも移送が伝達されておらず、2時間ほど監視されない時間が生(しょう)じました。倉庫にあった服を着て凍(こお)った川を渡(わた)って町に逃(に)げようとした時です。戦線から逃げてきた別のSSの隊員と出くわしましたが、うまくかわすことができ、脱出に成功しました。
戦後、歴史家としてホロコーストの研究を始め、真実を明らかにする決意を固めました。今は生還者の減少に伴い、証言する講演を月2回続けています。相手の意見や考えも聞いて知識を深め、事実を広く伝える努力をしています。
「今後の世界を担う若い人にできることは歴史を勉強すること」。自ら体験した悲劇を繰り返させないため、歴史こそ若者が学ぶ意味があると力を込めます。(河野新大、17歳)
「アンネの日記」で知られるアンネ・フランク(1929~45年)が、父母や姉たちと暮らしていたオランダ・アムステルダム市の隠れ家を訪れました。
事務室の奥(おく)にある、回転式本棚(ほんだな)を手前に引くと、裏側から秘密の階段が現れる仕組み。「日記」を読み、その存在は知っていましたが、実際に階段を上ると緊張(きんちょう)しました。思ったより急で狭く薄暗かったのです。
上ると、アンネたちが暮らした部屋でした。がらんとして、歩くたびに床(ゆか)はぎしぎしときしみます。8人が暮らしていたとは思えないほどの狭(せま)さ。ここで息をひそめ、2年間も暮らしていたなんて…。想像すると胸が苦しくなりました。
アンネたちは、外から見えないよう、昼間はいつも厚いカーテンを閉めていました。ただ1カ所、屋根裏部屋の窓からは、光が見えたそうです。私は下からその窓を見上げました。「見つかると逮捕(たいほ)されて殺されるかもしれない」。そんな緊張感の中、窓から小鳥のさえずりや、自転車が行き交う音を聞いていたでしょう。どんなに外に出たかっただろうと想像しました。
「日記」も実物が展示されていました。ページを惜(お)しむように、小さな字でぎっしりと埋(う)められています。つらい思いをぶつけるようにつづっていたのだろう、と感じました。
印象的だったのは、アンネの父オットーさんの写真です。この隠れ家の住人で生き残ったのはオットーさんだけ。解放された後、誰もいない、がらんとした隠れ家に戻り、家の中を静かに見つめている横顔の写真でした。家族を全て亡くし、ただ何もない部屋をぼうぜんと見る目。どんな思いで隠れ家の生活を思い返していたのだろう…。心に穴が開いたような悲しい気持ちになりました。
私はアンネと同年代です。訪れた1時間半、アンネの気持ちになろうと心掛け、音を出さないよう歩きました。その短い間でも緊張して神経が削(けず)られ、とても疲(つか)れました。最後に、見学者が感想を書くノートがありました。「広島で、ホロコーストの悲劇を伝えます」。そうつづりました。(鼻岡舞子、16歳)
若い世代も伝えよう
県立広島高3年 河野新大
教科書や本、写真でしか見ることができなかったアウシュビッツ強制収容所。その中に足を踏み入れ、鉄条網(てつじょうもう)に囲まれる気分を体験しました。自由が束縛され、真上の空を仰(あお)ぎ見ることしかできなかった犠牲者の気持ちを想像しました。
ぼうぜんとした気分に浸(ひた)りました。地上に視線を向けると、周囲の景色に色がなくなり、モノクロのように見えました。展示室で見た写真が、目の前の光景に重なります。当時の建物を前に、恐(おそ)ろしい出来事が起きた場所だと実感することができました。焼け野原から復興し、緑の映える広島市の平和記念公園に立つ時とは、違(ちが)う感じ方でした。
第2次世界大戦で、日本は広島、長崎に原爆が投下され、罪のない大人と子どもが犠牲になる被害(ひがい)を受けました。しかし日本は、中国をはじめとしたアジア各国に対して、虐殺や植民地支配をしてきました。戦後70年を迎(むか)え、ジュニアライターとしての活動や、その他の平和活動は、ますます世界に向けて平和を発信する必要性が出ています。
自分たち若い世代は、日本が引き起こした悲しい歴史も学びつつ、核兵器(かくへいき)の恐ろしさも伝え続けるべきです。罪のない人や未来ある子どもたちを犠牲にする戦争の廃絶(はいぜつ)を国内外に訴(うった)えるため、世界の若者と議論を交わし、平和を追求していく義務があると考えます。
現地若者と考え共有
広島女学院高2年 鼻岡舞子
事前学習を重ねてから出発しましたが、現地を訪れて初めて分かることが、たくさんありました。
アウシュビッツ強制収容所の跡を見て回り、人の生きた気配がしないことに恐ろしさを感じました。自分と同じ人間が、「人」として扱(あつか)われず、ただ殺されていったという悲しい現実に向き合うと、やりきれなさだけが残りました。この空気は、現地を訪れないと伝わりにくいと思います。
ポーランドの若者と意見交換もしました。平和教育が広島とかなり違うことに、とても驚きました。広島で生まれ育った私は、小学生の時に初めて原爆資料館を見学し、被爆の実態を学んできました。しかしポーランドでホロコーストについて学習するのは、中学3年からだそうです。事実を受け止められるだけ成長してからスタートします。
一方、「過去を知り、学び、伝えていくことは、とても重要だ」という意見は、現地の若者も同じでした。考えを共有できたことが、うれしかったです。
ホロコーストについて、日本でももっと学ぶ必要があると思います。アンネ・フランクと同じような体験をする子どもたちが、今も未来も二度と出ないことを願ってやみません。今回、直接会うことで生まれたつながりを生かし、今後も積極的に海外の若者と意見を交わしていきたいです。
アウシュビッツ強制収容所
ナチス・ドイツは第2次世界大戦中、欧州でユダヤ人や少数民族ロマたち約600万人を組織的に虐殺した。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と呼ばれる。アウシュビッツ強制収容所は最大規模で、1940年6月、現在のポーランド南部のオシフィエンチム市郊外(こうがい)に開設された。当初はポーランド人政治犯を収容していたが、42年からユダヤ人を主な対象とする「絶滅収容所」に。45年1月に当時のソ連軍が解放するまで、欧州全域から移送されたユダヤ人に加え、ロマ、ソ連軍捕虜(ほりょ)ら100万人を超す犠牲者を出した。79年、世界文化遺産に登録された。
アンネ・フランク
1929年にドイツ・フランクフルトで生まれたユダヤ人の少女。ナチスの迫害(はくがい)を逃(のが)れ、13歳から約2年間、オランダ・アムステルダムの隠れ家で暮らした。44年8月に15歳でナチスに捕(と)らえられるまでの2年余りの日々を日記につづった。45年、強制収容所で亡くなった。
(2015年4月9日朝刊掲載)
高校3年の河野新大(あらた)さん(17)と、高校2年の鼻岡舞子さん(16)。広島県内の大学生6人と一緒に、ポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所跡を見学しました。遺品の数々に人々の命を思い浮かべ、広大な敷地(しきち)を歩くことで犠牲者の絶望感と戦争の狂気(きょうき)を実感。生還(せいかん)者の証言にも耳を傾(かたむ)け、記憶を受け継ぐ決意を新たにしました。オランダに移動した後は、アンネ・フランクが家族らと隠(かく)れた家を訪問。自由と平和を願い続けた少女に、自らの姿を重ね合わせました。
ツアーの成果は、5月31日に広島市中区の広島国際会議場で開く帰国報告会でも発表します。
<ピース・シーズ>
平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの49人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。
紙面イメージはこちら
現地での主な活動
(3月22~29日)
ポーランド
オシフィエンチム市
・アウシュビッツ強制収容所跡(現アウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館)見学
・博物館の副館長と面会
・館内にある「絵の展示室」を見学
・収容所生還者の証言を聞く
・現地の高校生・大学生と意見交換
・ヤヌシュ・フビエルト市長に面会。平和首長会議の会長からのメッセージを手渡す
オランダ
アムステルダム市
・アンネ・フランクの隠れ家を利用した資料館「アンネ・フランク・ハウス」を見学。ロナルド・レオポルド館長と面会
・資料館の職員やボランティアたちと意見交換
・アムステルダム市役所を訪問。平和首長会議の会長から市長宛てのメッセージを届ける
罪なき犠牲 忘れない
アウシュビッツ 絶滅収容所 感情止まる
刈(か)り取られた大量の髪の毛、はきつぶされた靴(くつ)の山…。犠牲者の遺品が、数え切れないほど展示されていました。一つ一つに宿っていた人の命が奪(うば)われたと想像すると、感情が止まるほどの衝撃(しょうげき)を受けました。こんなに多くの人が殺されたとは信じたくない―。しかし、これがホロコーストの現実でした。
初めて訪れた絶滅(ぜつめつ)収容所。ドイツ語で「ARBEIT(アルバイト) MACHT(マハト) FREI(フライ)(働けば自由になる)」と書かれた第1収容所の正門をくぐると、ポプラ並木や赤れんがの建物群が目の前に広がります。ある西洋の町にいるかのような気分です。しかし、跡地(あとち)にある国立博物館で唯一(ゆいいつ)の日本人ガイド中谷剛さん(49)の説明に耳を疑いました。「環境(かんきょう)を考えて、ナチスは木を植えていた」。人の命より収容所の景観や環境を優先した身勝手さに、怒(いか)りを覚えました。道沿いにある花壇は、連行した人に花を見せて油断させ、死への恐怖(きょうふ)を感じさせないように造ったそうです。
展示品のうち、三つ編みのまま残された髪(かみ)の毛に目が留まりました。私たちと同年代の女の子でしょう。おしゃれに気を使い多感な年頃(としごろ)だったはず。せっかく伸ばした髪の毛を無残に刈り取られたと思うと許せません。「これを一つの塊(かたまり)と見るか、一人の人として見るか」。中谷さんの言葉が、胸を打ちます。
ガス室に入ると、体感温度が一気に下がりました。コンクリートで囲まれた四角い部屋。天井(てんじょう)に開いた小さな穴から青酸殺虫剤(せいさんさっちゅうざい)チクロンBが投げ込まれ、殺されたのです。上へ上へと空気を求めて手を伸ばし、最後には倒(たお)れた人たちが積み重なり、ピラミッドのような形になったそうです。
すぐ隣に火葬場(かそうば)があり、1日約600人が焼かれました。火葬が次第に追い付かなくなり、野焼きされることもあったそうです。遺体を運ぶ仕事もユダヤ人に課されました。次は自分が死ぬかもしれない恐怖、死んだ仲間を火葬場へ運ぶ悲しさ。私たちの想像が及ばないほど感情が揺(ゆ)れ動いたはずです。
収容された人の顔写真がたくさん並んでいました。男女関係なく髪は短く、遠くを見つめるような人、悲しそうな目の人、生きる気力を失ったような人…。ほとんどの人が殺されたという事実が身に迫(せま)ってきました。
第2収容所のビルケナウは「第1」から約3キロ離れた湿地帯(しっちたい)に突然(とつぜん)現れます。多い時で約10万人が収容された「生の終着点」に約120棟の建物が残ります。静かに、しかし強烈(きょうれつ)に歴史を物語っています。
ユダヤ人たちを運んだ鉄道の引き込み線に沿って歩くうち足が重くなりました。1両に約200人も詰め込んだ家畜(かちく)用の貨車が止まっています。医師が「おまえは右」「左」と、降ろされた人の生死を振り分けた降車場です。「ついに来てしまった」「これからどうなるんだろう」―。人々の嘆(なげ)きが聞こえる気がして、どうしようもない悲しさに襲(おそ)われました。
総面積が平和記念公園(広島市中区)の10倍以上の1・4平方キロもある広大な敷地。ガス室は4カ所ありましたが、旧ソ連軍が解放する前にナチスが証拠隠滅(しょうこいんめつ)のため爆破(ばくは)しました。今はれんがの残骸(ざんがい)があるだけです。
まるで「工場」のように人を殺す「作業」を繰(く)り返していた収容所。ナチスはなお拡張計画を立てていたそうです。未来ある子どもや罪のない人々を殺す必要がどこにあったのか。全く理解できません。
威圧(いあつ)感のある監視塔(かんしとう)に上って、当時の監視兵の視線を想像しました。眼下に並んだ大勢の人々を「絶滅すべき民族」と捉え、自分と同じ人間として見ることは決してなかったのだろう。だからこそ、残酷になれたのではないのか。
こんな過ちは二度と繰り返してはいけません。本物の「証言」に触(ふ)れ、その思いを強くしました。「過去を知ることは、今を生きる私たちが次の選択(せんたく)をする時に生きるのではないか」。中谷さんの言葉は、私たちに課題を与(あた)えてくれました。歴史をきちんと学び、未来のために正しい選択ができる大人になりたい。そう心に決めました。(鼻岡舞子、16歳、河野新大、17歳)
生還者ドゥゴボルスキさん 過去を学ぶこと 大切
「生きる希望を捨てなかったから、生き延びられた」。アウシュビッツ強制収容所から生還したポーランド人のバツワフ・ドゥゴボルスキさん(89)は過酷(かこく)な労働に耐(た)え、脱出(だっしゅつ)できた理由をこう振り返りました。歴史家として活動する今、過去を冷静に見つめ直す大切さを訴(うった)えています。
「138871」。袖をまくって見せてくれた左腕に、第2収容所のビルケナウに連行された時に刻まれた番号の入れ墨が、いまだに青くにじんでいます。名前という人間の尊厳が「はぎ取られ」、労働力としてしか見なされなかった屈辱や悲しさが伝わります。
ナチスへの抵抗軍(ていこうぐん)に入ったことで逮捕(たいほ)され、17歳だった1943年、ビルケナウに連行されました。ポーランド人だったため、列車から降りた後、生死の選別を受けることはありませんでしたが、番号は刻まれました。
しかしユダヤ人は選別されました。収容後に見たガス室に連れて行かれる人々は、自分がどうなるか分かっていたようです。「生きようという希望を持っているようには見えなかった。望みをなくした人に、どう声をかけたらいいか分からなかった」と明かします。
食事は朝と夕に小さなパンとマーガリン、仕事中に1杯のスープだけ。後に、しっかり働けるよう家族からの食料の小包が受け取れるようになりました。しかしユダヤ人は受け取りが許されませんでした。同じ棟に入ってきたユダヤ人も、3カ月後、ガス室に連れていかれました。
排水溝(はいすいこう)を掃除(そうじ)する班にいた時です。不衛生なのに体を洗う水は冷水しかなく、病気が流行しました。肺炎(はいえん)になり病棟へ。1週間意識がなく、体重は15キロ減り精神的に追い詰められました。しかし仲間の励(はげ)ましで回復に向かいました。別の病棟に移され、病人の入浴を担当する班で働くことに。暖炉(だんろ)二つとシャワーがあり、生きることができました。
生還できたのは、偶然が重なり脱出に成功したからといいます。45年1月、収容者を西へ移す命令が出ました。衛生係として病人と共に残りましたが、「証人になるから殺される」と直感しました。しかしナチスの親衛隊(SS)は先に車で逃(に)げ、しかも移送が伝達されておらず、2時間ほど監視されない時間が生(しょう)じました。倉庫にあった服を着て凍(こお)った川を渡(わた)って町に逃(に)げようとした時です。戦線から逃げてきた別のSSの隊員と出くわしましたが、うまくかわすことができ、脱出に成功しました。
戦後、歴史家としてホロコーストの研究を始め、真実を明らかにする決意を固めました。今は生還者の減少に伴い、証言する講演を月2回続けています。相手の意見や考えも聞いて知識を深め、事実を広く伝える努力をしています。
「今後の世界を担う若い人にできることは歴史を勉強すること」。自ら体験した悲劇を繰り返させないため、歴史こそ若者が学ぶ意味があると力を込めます。(河野新大、17歳)
アンネ隠れ家 日記への思い 胸詰まる
「アンネの日記」で知られるアンネ・フランク(1929~45年)が、父母や姉たちと暮らしていたオランダ・アムステルダム市の隠れ家を訪れました。
事務室の奥(おく)にある、回転式本棚(ほんだな)を手前に引くと、裏側から秘密の階段が現れる仕組み。「日記」を読み、その存在は知っていましたが、実際に階段を上ると緊張(きんちょう)しました。思ったより急で狭く薄暗かったのです。
上ると、アンネたちが暮らした部屋でした。がらんとして、歩くたびに床(ゆか)はぎしぎしときしみます。8人が暮らしていたとは思えないほどの狭(せま)さ。ここで息をひそめ、2年間も暮らしていたなんて…。想像すると胸が苦しくなりました。
アンネたちは、外から見えないよう、昼間はいつも厚いカーテンを閉めていました。ただ1カ所、屋根裏部屋の窓からは、光が見えたそうです。私は下からその窓を見上げました。「見つかると逮捕(たいほ)されて殺されるかもしれない」。そんな緊張感の中、窓から小鳥のさえずりや、自転車が行き交う音を聞いていたでしょう。どんなに外に出たかっただろうと想像しました。
「日記」も実物が展示されていました。ページを惜(お)しむように、小さな字でぎっしりと埋(う)められています。つらい思いをぶつけるようにつづっていたのだろう、と感じました。
印象的だったのは、アンネの父オットーさんの写真です。この隠れ家の住人で生き残ったのはオットーさんだけ。解放された後、誰もいない、がらんとした隠れ家に戻り、家の中を静かに見つめている横顔の写真でした。家族を全て亡くし、ただ何もない部屋をぼうぜんと見る目。どんな思いで隠れ家の生活を思い返していたのだろう…。心に穴が開いたような悲しい気持ちになりました。
私はアンネと同年代です。訪れた1時間半、アンネの気持ちになろうと心掛け、音を出さないよう歩きました。その短い間でも緊張して神経が削(けず)られ、とても疲(つか)れました。最後に、見学者が感想を書くノートがありました。「広島で、ホロコーストの悲劇を伝えます」。そうつづりました。(鼻岡舞子、16歳)
若い世代も伝えよう
県立広島高3年 河野新大
教科書や本、写真でしか見ることができなかったアウシュビッツ強制収容所。その中に足を踏み入れ、鉄条網(てつじょうもう)に囲まれる気分を体験しました。自由が束縛され、真上の空を仰(あお)ぎ見ることしかできなかった犠牲者の気持ちを想像しました。
ぼうぜんとした気分に浸(ひた)りました。地上に視線を向けると、周囲の景色に色がなくなり、モノクロのように見えました。展示室で見た写真が、目の前の光景に重なります。当時の建物を前に、恐(おそ)ろしい出来事が起きた場所だと実感することができました。焼け野原から復興し、緑の映える広島市の平和記念公園に立つ時とは、違(ちが)う感じ方でした。
第2次世界大戦で、日本は広島、長崎に原爆が投下され、罪のない大人と子どもが犠牲になる被害(ひがい)を受けました。しかし日本は、中国をはじめとしたアジア各国に対して、虐殺や植民地支配をしてきました。戦後70年を迎(むか)え、ジュニアライターとしての活動や、その他の平和活動は、ますます世界に向けて平和を発信する必要性が出ています。
自分たち若い世代は、日本が引き起こした悲しい歴史も学びつつ、核兵器(かくへいき)の恐ろしさも伝え続けるべきです。罪のない人や未来ある子どもたちを犠牲にする戦争の廃絶(はいぜつ)を国内外に訴(うった)えるため、世界の若者と議論を交わし、平和を追求していく義務があると考えます。
現地若者と考え共有
広島女学院高2年 鼻岡舞子
事前学習を重ねてから出発しましたが、現地を訪れて初めて分かることが、たくさんありました。
アウシュビッツ強制収容所の跡を見て回り、人の生きた気配がしないことに恐ろしさを感じました。自分と同じ人間が、「人」として扱(あつか)われず、ただ殺されていったという悲しい現実に向き合うと、やりきれなさだけが残りました。この空気は、現地を訪れないと伝わりにくいと思います。
ポーランドの若者と意見交換もしました。平和教育が広島とかなり違うことに、とても驚きました。広島で生まれ育った私は、小学生の時に初めて原爆資料館を見学し、被爆の実態を学んできました。しかしポーランドでホロコーストについて学習するのは、中学3年からだそうです。事実を受け止められるだけ成長してからスタートします。
一方、「過去を知り、学び、伝えていくことは、とても重要だ」という意見は、現地の若者も同じでした。考えを共有できたことが、うれしかったです。
ホロコーストについて、日本でももっと学ぶ必要があると思います。アンネ・フランクと同じような体験をする子どもたちが、今も未来も二度と出ないことを願ってやみません。今回、直接会うことで生まれたつながりを生かし、今後も積極的に海外の若者と意見を交わしていきたいです。
アウシュビッツ強制収容所
ナチス・ドイツは第2次世界大戦中、欧州でユダヤ人や少数民族ロマたち約600万人を組織的に虐殺した。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と呼ばれる。アウシュビッツ強制収容所は最大規模で、1940年6月、現在のポーランド南部のオシフィエンチム市郊外(こうがい)に開設された。当初はポーランド人政治犯を収容していたが、42年からユダヤ人を主な対象とする「絶滅収容所」に。45年1月に当時のソ連軍が解放するまで、欧州全域から移送されたユダヤ人に加え、ロマ、ソ連軍捕虜(ほりょ)ら100万人を超す犠牲者を出した。79年、世界文化遺産に登録された。
アンネ・フランク
1929年にドイツ・フランクフルトで生まれたユダヤ人の少女。ナチスの迫害(はくがい)を逃(のが)れ、13歳から約2年間、オランダ・アムステルダムの隠れ家で暮らした。44年8月に15歳でナチスに捕(と)らえられるまでの2年余りの日々を日記につづった。45年、強制収容所で亡くなった。
(2015年4月9日朝刊掲載)