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ジュニアライター発信

Peace Seeds~ヒロシマの10代がまく種 (第4号) 「私たちの平和宣言」 廃絶の願い そして決意

 1945年に広島に原爆が投下されて2年後の47年8月6日、第1回平和祭で、当時の浜井信三市長が初の「平和宣言」を読み上げました。それ以降、催しが中止された50年と「市長あいさつ」の形だった翌51年を除き、原爆の日には毎年、広島市長が平和宣言を発表しています。

 核兵器は人類の破壊(はかい)につながる「絶対悪」として、ヒロシマはその廃絶(はいぜつ)を訴えてきました。しかし今なお、米国、ロシアをはじめ9カ国が計約1万6千発余りの核弾頭(かくだんとう)を持つと推定されています(昨年1月、ストックホルム国際平和研究所調べ)。日本が米国の「核の傘(かさ)」の下にあるということにも居心地の悪さを感じます。核によって守られる平和は本当の平和ではないのでは、と思うからです。

 被爆から70年。被爆者の高齢化が進み、ヒロシマの記憶の「継承(けいしょう)」も大きな課題です。被爆者から体験を聞き、発信する活動に私たちジュニアライターも参加しています。でも、まだまだもっと多くの人に関心を持ってもらいたい、と感じます。

 今回は、こうした思いを基に、2人の元市長へのインタビューも踏(ふ)まえ、私たちなりの平和宣言をまとめました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの44人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

紙面イメージはこちら

核弾頭はなお9カ国に1万6000発もある

「核の傘」の下の日本 本当に平和かな

あの日から70年 被爆者は少なくなっている

          

そんな現実を前に考えた


●全ての地球市民の皆さん、ヒロシマを見てください。知ってください

 国内・海外の人たちに、もっと関心を高めてほしいです。広島を訪れてください。70年前の惨禍を繰り返さないためには、より多くの人が原爆の非人道性を理解し、語り継ぎ、伝えていく必要があります。それを進めるために、出張原爆資料館(原爆展)をより積極的に展開します。戦争をテーマにした国際映像・音楽フェスティバルや、各国の若者同士が自国の歴史を発表し合う交流会などの開催も提案します。

●世界の政治家の皆さん、とりわけ核兵器保有国や核を持とうとする国の指導者に言います。ヒロシマに来て、核廃絶に本気で取り組んでください

 核兵器は要りません。なぜ大人が気付かないのですか。生命を傷つける道具であり。経済的にも重荷です。事故の危険、テロの標的となる恐れが常にあります。核兵器にかけるお金は世界の貧困対策に使った方がよほどいいと思います。広島に来て、事実を知ってください。とことん案内します。

●日本の指導者の皆さん、世界をリードして

 戦後、戦争放棄の憲法を掲げて歩み続ける姿に世界は一目置いています。「核の傘」から出て、その傘をたたむよう働きかけてください。平和首長会議が描く「2020年までの核兵器廃絶」まであと5年。唯一の被爆国として、自信を持って世界を導いてほしいです。

●世界の皆さん、対話を深めましょう

 地球上には多種多様な人がいます。互いの価値観を知り、違いを認識した上で対話を重ねましょう。それが争いの芽を未然に摘むことにもつながると信じます。

●私たちジュニアライターも、平和の大切さを学び、発信し続けます

 被爆者の生の声を聞くことができる時間は限られています。被爆者の体験や思いを次の世代に引き継ぐために多くの人が活動しています。ジュニアライターもその一員となって記事を書き、世界に発信していくことを誓います。

(まとめ・高1岡田春海)

元市長2人に聞く

 毎年8月6日、広島市の平和記念式典で市長が発表する平和宣言。宣言の持つ意味や作成時の思いを、被爆50年(1995年)、60年(2005年)の平和宣言を担当した元市長2人に聞きました。

平岡敬さん(87)=1991~98年に宣言

加害と被害 両方の視点

 ―平和宣言はどのように作られましたか。
 「核兵器廃絶と世界平和の希求(ききゅう)」、「原爆犠牲者への慰霊と被爆者援護(えんご)の充実」を2本の柱に書きました。その年その年の、世界や国内の情勢も意識し、それに対してヒロシマはどう考えるか―などの視点も加えました。平和宣言は記録となる文書です。毎年積み重ねることで歴史になる。記録として残し、未来へ記憶を引き継ぎたい、そんな思いで作っていました。

 ―1991~93年と被爆50年の95年にはアジアへの謝罪(しゃざい)を盛り込んでいます。
 原爆によって広島はひどい目にあった。その一方で(日本は)アジアに被害を与えた。加害・被害の両方を見ないといけないのではないか―。ヒロシマはアジアに向けて何を言うべきかを考えた結果です。

 ―平岡さんの考える平和とはどんなものでしょう。
 たとえ核兵器がなくなっても平和になるわけではありません。貧困、病気、人権侵害(しんがい)…。これらもなくさなくてはなりません。みんなが住みやすい社会をつくることが平和な世界をつくることだと思います。

 ―若い世代に何を期待しますか。
 「いじめをしない」「ごみを捨てない」など、自分たちができる身近なことを積み上げていくのが大事です。そうすることで、政治も変わる可能性が出てきます。歴史を学ぶとともに、多様な意見に耳を傾(かたむ)けてほしい。理想を持ち、次の世代に渡す「未来」をつくっていってください。(中2中川碧、中1藤井志穂)

秋葉忠利さん(72)=99~2010年に宣言

世界の都市に連携促す

  ―平和宣言とはどんなものですか。どう構想されましたか。
 広島市にとって最も重要な発信です。1年かけて市民、被爆者の皆さんと対話し、世界の声を聞いて作りました。亡くなった被爆者への追悼(ついとう)の気持ちと未来への意志を盛り込みました。

  ―気を配った点は。
 死に直面しながらも生きることを選び、広島の復興に尽力した被爆者の皆さんへの感謝の気持ちを込めました。「こんな思いをほかの誰(だれ)にもさせてはならない」という被爆者のメッセージを伝えるよう努めました。現在まで70年間、第3の被爆地が出ていないのは、被爆者の世界への呼び掛けのおかげでもあるのです。

  ―被爆60年(2005年)の宣言に「継承(けいしょう)と目覚め・決意の年」を掲げるなど、世界の都市や市民の活動を促(うなが)しましたね。
 平和市長会議(現平和首長会議)の拡大で、世界の都市同士がつながり、一般市民の発言権が強まりました。攻撃目標にされるのは都市。市民一人一人が生命の大切さをアピールすることはものすごい力になるのです。個々の都市が会議に参加していけば、その国が核廃絶への行動を起こしたのと同じになります。

  ―若い世代への期待、助言をお願いします。
 過去の過(あやま)ちを繰り返さないために、第2次世界大戦の事実や被爆の体験をきちんと引き継ぎ、生かすことが若者の役目です。その中から、未来をつくる上での教訓を導くことができるはずです。(高1松尾敢太郎、中3山本菜々穂)

【ヒロシマと平和宣言をめぐる主な動き】

1945年 米が広島・長崎に原爆投下。終戦
  47年 第1回広島平和祭。初めての平和宣言
  49年 広島平和記念都市建設法が施行
  52年 この年から平和記念公園の慰霊碑(いれいひ)前で式典
  54年 米のビキニ水爆実験で、第五福竜丸(ふくりゅうまる)が「死の
      灰」を浴びる
  70年 核拡散防止条約(NPT)が発効
  82年 広島・長崎両市長の提唱で世界平和連帯都市市長会議(現平和首長
      会議)が発足
  86年 チェルノブイリ原発事故
  89年 広島市で核戦争防止国際医師会議(IPPNW)世界大会▽米ソ首
      脳会談で冷戦(れいせん)終結宣言
  94年 広島アジア競技大会開催
  95年 被爆者援護法が施行
  96年 国際司法裁判所が、核兵器の使用・威嚇(いかく)は「一般的に国
      際法違反」と勧告的意見▽原爆ドームが世界遺産に
  99年 平和宣言、この年から「です・ます」調に
2000年 NPT再検討会議で核兵器廃絶を「明確な約束」とする文書採択
  03年 平和市長会議(現平和首長会議)が2020年までの核兵器廃絶を
      目指す「2020ビジョン」発表
  04年 平和記念式典の会場後方に大型テント
  08年 平和市長会議がヒロシマ・ナガサキ議定書を発表
  09年 米オバマ大統領がプラハで「核兵器のない世界」に向けて演説
  10年 NPT再検討会議で核軍縮(かくぐんしゅく)推進への行動計画を
      柱とする最終文書採択▽平和記念式典に米駐日大使、国連事務総長
      ら出席
  11年 東日本大震災、福島第1原発事故
  14年 被爆者健康手帳を持つ人が20万人を下回る。平均年齢79・44
      歳(13年度末時点)

(高1河田紗也加、林航平、小6伊藤淳仁)

1947年 浜井信三市長
 「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅(はめつ)と文明の終末を意味する」※写真は48年の宣言

1991年 平岡敬市長
 「日本はかつての植民地(しょくみんち)支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」

2001年 秋葉忠利市長
 「『戦争の世紀』の生き証人であるヒロシマは、21世紀を核兵器のない、『平和と人道の世紀』にするため、全力を尽くす」

(2015年2月26日朝刊掲載)

【編集後記】
 平和宣言の作成で特に考えたことは、項目ごとに誰に呼びかけているのかを明確にすることでした。例えば「ヒロシマをもっと知ってほしい」という訴えの対象は日本人なのか世界中の人々なのか、あるいは政府なのか。平和宣言はたくさんの人が読みます。自分も呼びけられているうちの1人だと、読者の皆さんに身近に感じてもらいたいです。(松尾)

 平和宣言を分かりやすく伝えるため、市長はさまざまな工夫をしていることを今回のインタビューで初めて知りました。例えば「2020年までの核兵器廃絶」など具体的な目標の紹介です。市長経験者の生の声を聞いて、平和宣言が身近に感じられました。(河田)

 今回は自分たちで平和宣言を考えました。取材した事実を記事にするのとは違って、インタビューやこれまでの事実確認の取材を基に、自分たちの意見をまとめる作業は大変でした。でも同じ班の人と現代の問題を幅広く話し合うことで、社会情勢への理解を深めることができたと思います。(岡田春)

 今回の作業で感じたことは、いろんな出来事が過去のものとなる怖さです。年表作りを通じ、最近にも核実験や紛争は起きていることをあらためて知り、「平和」ということについて考えさせられました。皆さんにも、私たちの宣言を読んで考えてほしいです。(林)

 私たちの平和宣言を作るにあたって、秋葉元市長と平岡元市長に取材しました。平和宣言は1年かけて構想することや、その時の世界情勢を踏まえて作成するということを知り、新鮮でした。これから、平和宣言をより深く考えながら聞けると思います。(山本)

 元市長2人への取材はとても緊張しました。でも、時代背景などを踏まえて文をまとめるなど、宣言を作る際の裏側を聞くことができました。初めて知ることがたくさんあり、貴重な体験でした。うれしかったです。これからもジュニアライターとしていろんな方々に取材できるといいなと思います。(中川)

 インタビュー形式の原稿は今回が初めてだったので、私は少し悩みました。質問項目をどう表現し、相手の答えをどのようにまとめるかが難しかったです。砕けた言葉にならない範囲で簡潔な会話文に近づけるために、どう書けばいいか、頭を悩ませました。慣れない作業でしたが、勉強になりました。(藤井)

 元市長2人に話を聞き、戦後の年表をまとめたり、みんなで話し合いをしたりしました。そんな作業を通じて、広島市が平和宣言を発信し続けることが、核兵器を大きく減らす力になる、と強く思うようになりました。(伊藤)

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