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ジュニアライター発信

『ジュニアライター発』 被爆医師と中高生の座談会 未来向き生きる姿に感銘

 広島市医師会の市民公開講演会「全国の高校生へ語り継ごう ヒロシマから」が開かれ、被爆医師の原田雅弘(まさひろ)さん(88)、原田康夫さん(85)と中高生との座談会がありました。

 座談会には、ジュニアライターを含(ふく)む中学3年~高校3年の9人が参加。まず中高生が、2人の被爆証言や放射線影響(えいきょう)研究所(放影研、南区)の丹羽(にわ)太貫(おおつら)理事長の講演を聞いた感想について「未来に向かって生きている2人に感銘(かんめい)を受けた」「放射線の人体影響について詳(くわ)しく知ることができた」などと話しました。

 続いて、中高生の質問に2人が答えました。戦後すぐに雅弘さんら高校生たちが結成した「広島学生音楽連盟」について、「大人たちに反対されなかったのですか」との問いに、雅弘さんは「大人は反対も何もしなかった」と答えました。「広島の文化のために生きる」と述べた康夫さんには「どのような文化を守っていきたいですか」との質問があり、「昔、広島は『文化が足らん』と言われていた。今は芽がだんだん生えてきている。原爆ではなく文化で広島に人を引き寄せたい」と話していました。

 また、雅弘さんは「始めることは簡単だが、続けることは大変。努力の積み重ねだ」と言っていました。何事もやる前から諦(あきら)めるのではなく、挑戦(ちょうせん)し続けることが大事だと思いました。

 雅弘さんは広島高等学校(現広島大)1年(17歳)の時、横川駅(爆心地から約1・6キロ)で被爆。電車の下敷(したじ)きになって両足をけが、友達の肩(かた)を借りて上安(かみやす)(現安佐南区)の自宅に戻(もど)りました。その後、脱毛(だつもう)や出血のため、40日間学校に行けませんでした。テニスや音楽に打(う)ち込(こ)み、被爆の翌年、市内の高校生たちが中心となって結成した合唱団「広島学生音楽連盟」の一員として活動しました。

 康夫さんは当時、県立広島第一中(現国泰寺高)2年(14歳)。あの日は担任の指示で、学徒動員が休みだったため直接被爆を免(まぬが)れましたが、2日後に親戚(しんせき)を捜(さが)しに入市被爆。戦後、ラジオ部品を組み立てて売ったお金で当時希少だった顕微鏡(けんびきょう)を手に入れ、医師になる決意をしました。広島大に入学。後に、同大の学長になりました。趣味(しゅみ)のオペラでもヒロシマと世界を結びました。(高3森本芽依、高1岡田輝海)

(2016年9月14日朝刊掲載)

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