×

ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第25号) 被爆71年 元日の声

 被爆・終戦から71年となる新しい年が始まりました。原爆が投下されたあの日の記憶と「核兵器廃絶」を求めるヒロシマの声は、70年の節目だった昨年、特に注目され国内外に発信されました。しかし、核の脅威(きょうい)は依然として世界にあり、核実験も絶えません。核兵器のない世界を実現するために被爆地から粘り強く声を上げることは、ことしも変わりません。

 元日、戦争も核兵器もない世界を目指して活動する中国新聞ジュニアライターは、平和記念公園(広島市中区)を訪れました。自分たちに何ができるかを考えるためです。原爆慰霊碑に手を合わせた50人を取材。ボランティアとして平和の橋渡しをする2人の思いにも耳を傾(かたむ)けました。

 決して忘れてはいけない過ちを人々がどのように受け止め、どのような未来を築こうとしているのか。それぞれの思いを聞き、皆さんと平和への決意を新たにしたいと思います。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの45人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

紙面イメージはこちら

@平和公園

非核の世界へ粘り強く

 被爆・終戦から71年の2016年。原爆慰霊碑前で人々は何を願ったのでしょうか。平和を求める声を紹介します。

願う

 多くの人が世界平和を願いました。インドから初めて来た詩人イボハ・セトラマイウムさん(61)は「若い世代に戦争を繰り返してほしくない」と望みます。母国が核兵器を持つ現状を「絶対に良くない」とし、「原爆資料館を訪れたことで、世界平和という花を咲(さ)かせる希望を持ちたい」と話します。

 「平和を尊重し人類を愛したい」という米国のジェーン・ローサンさん(50)は「過去の事実を知ることで、互いに愛し共に行動することができる」と考えます。北九州市の高校1年井上元貴さん(16)のように原爆犠牲者に対し「安らかに眠ってください」と祈る声もありました。

 被爆者は特に平和を切望しています。1歳で被爆した広島市中区の加納千世子さん(71)は「平和を求めることは自分の生きがい。平和な世界をつくるまでは死ねない」。13歳で被爆し孤児(こじ)になった中区の男性(83)は、あの日つぶれた家屋の下から「出してくれ」と聞こえた声が忘れられません。「つらくて思い出したくない70年だった。自分の苦しみを他の人に体験してほしくない」。涙(なみだ)交じりに声を絞り出しました。(中3上岡弘実)

行動する

 戦争の事実を知ることが重要という声のほか、身近にできることとしてお互い仲良くし、協力し合うことを挙げる声もありました。

 東京都の大学3年玉置有生さん(21)は「日本人として知っておこうと初めて訪れた。他にも戦争被害のあった場所に行って話を聞き、感じたことを友人と共有したい」と積極的です。広島市南区の会社員女性(25)は「世界には差別など他の問題もある。自分らしく生きられる世界にするために、お互い違いを乗り越えて認め合いたい」と話します。

 「家族や友人、職場の仲間を大切にすることを子どもに伝えたい」と西区の会社員石本聖子さん(27)。広島の歴史を学びに来た米国のセーラ・フェローズさん(26)は「世界中の人が討論することを恐(おそ)れて避(さ)けてはいけない。平和を実現するために何が大切なのかを話す必要がある」と訴えました。(高1坪木茉里佳)

受け継ぐ

 被爆者の平均年齢(ねんれい)は80歳を超え、若者の取り組みは欠かせません。「核家族(かくかぞく)化が進んでも日頃から世代間で交流して平和について話し合ってほしい」。母親が入市被爆した広島市安佐南区の松藤美智子さん(76)は、日常のコミュニケーションを通して記憶を受け継ぐよう提案します。

 被爆地訪問を勧める意見も。名古屋市の会社員田中圭子さん(44)は「被爆者の話を聞いたり資料館を見たりして、テレビドラマでなく現実にあったことだと実感してほしい」。初めて平和記念公園を訪れた金沢市の小学6年石黒瑠菜さん(12)も「原爆を経験した人に今のうちに話を聞きたい」と感じました。海外から来た人も若者の広島訪問を呼び掛けていました。

 私たちジュニアライターも「平和に関する取材を続けてほしい」と期待を掛けられました。(高2林航平)

「知りたい」に応える 熊高さん

 「なぜ原爆と分かったか知っていますか」。この日、3101人が見学した原爆資料館(中区)。感光したエックス線フィルムの展示の前で、ピースボランティアの熊高巖(いわお)さん(73)=安佐北区=は説明に立ちます。「来館者の心に響(ひび)く解説をしよう」。優しい口調に、来館者の足が止まります。

 4年目になる元日開館に毎年参加しています。「元日も一人一人、知りたいと思って来てくれる。その希望はいつも変わらないし、自分も応えたい」。年末年始を利用して帰省や観光で訪れる人たちに、無差別に人を殺傷する原爆の恐(おそ)ろしさを分かりやすく伝えるよう心掛けています。

 父は第2次世界大戦中、現在のミャンマーで戦死。自身は広島赤十字・原爆病院(中区)に40年間、事務員として勤めました。戦争の愚(おろ)かさや命の尊さを被爆者に寄り添って感じた経験が、今の原動力になっています。

 ナチス・ドイツによる迫害を受け、日記を残して15歳で亡くなったアンネ・フランクの父オットー氏や、被爆後の広島で住宅を建てたフロイド・シュモー氏の言葉を胸に刻みます。「平和は言うだけでは実現できない。行動しないと」(中2鬼頭里歩)

1人1輪 志の結晶 佐藤さん

 原爆慰霊碑の前では、参拝した人がキクやナンテンなどを1輪ずつ生ける「千人献花」が続きました。企画するNPO法人「HPS国際ボランティア」の理事長、佐藤広枝さん(77)=西区=は鮮(あざ)やかに飾(かざ)った花々を「世界平和を誓う人々の志の結晶(けっしょう)」と例えます。

 被爆60年の正月から始め12回目です。原爆で6歳上の兄を失い、自らも7歳で入市被爆した佐藤さん。初詣(はつもうで)に行ったり雑煮(ぞうに)を食べたりして祝う日だからこそ、原爆犠牲者や戦後の復興に尽力した先人たちに目を向け、感謝する必要があるのでは―。そんな気持ちで、「平和の原点」といえる慰霊碑を彩る献花を始めました。

 平和には「思いやりが大切」と強調。みんなで花をささげるように、近くの人と心をつなぎ力を重ねていこうと訴えます。「戦争を知らない世代が真実を知り、自分が何をすべきか考えてほしい」。この言葉から、僕たちが10代らしい継承(けいしょう)のスタイルを探ることが第一歩だと感じました。(高2松尾敢太郎)

(2016年1月14日朝刊掲載)

【編集後記】

 元日の早朝から原爆慰霊碑の前で手を合わせる人々には、特別な思いがありました。昨年の安全保障関連法成立に不安を抱き、あらためて平和を願うため、わざわざ東京から来た人もいました。観光客も目立ちました。しかし、広島に住む人こそ、元日に平和記念公園を訪れ、復興に尽力した先人たちのおかげで新年を迎えられると、感謝するのも大切ではないでしょうか。(松尾)

 正月に平和記念公園を訪れる人たちは、どのような思いを抱いているのか、どのようなことを祈ったのか、ということを今回聞きました。正月でも多くの人が来ているのに驚きました。人それぞれ、さまざまな願いがありました。とても意義のある取材ができたと思います。この中で、「ジュニアライターも平和に関する活動を続けてほしい」と何人にも言われたのが印象に残りました。自分たちが伝えていかなければならない立場にあると感じ、多くの人に平和について発信していこうと心に決めました。(林)

 午前7時からアンケートを取っていたので、寒くて寒くて凍えそうでした。本当に原爆慰霊碑に手を合わせに来る人がいるなんて、信じられないくらいの寒さです。すぐに指先がかじかんで感覚がなくなり、アンケートを一つ取るのも大変でした。しかし、いまは頑張って元日からアンケートを取ったかいがあったと実感します。なぜなら、朝早くからたくさんの人がさまざまな思いを込めて手を合わせていた、と知ることができたからです。でも、できればこれからは、もう少し温かいところで取材したいなあと思います。(上岡)

 元日の日の出から取材を始め、指の先が寒くて痛かったです。ですが、寒い中取材に応じてくれた皆さんの心の温かさに触れることができ、うれしかったです。1日中取材した後は、「無事に終わって良かった」という安心感で、帰ってすぐ寝ました。過酷な経験でしたが、記憶に残る元日になりました。少し気が早いですが、来年の元日は、穏やかに迎えられると思うので、楽しみです。(鬼頭)

年別アーカイブ