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ジュニアライター発信

『ジュニアライター発』 収容先の惨禍 語り継ぐ 金輪島で原爆犠牲者慰霊祭

 被爆後、多くのけが人が運ばれた広島市南区宇品町の金輪島で、原爆犠牲者を悼(いた)む慰霊祭がありました。参加者は当時、島に収容された被爆者や遺族から、多くの人が無念の思いを抱きながら亡くなった話を聞き、悲しい歴史が繰(く)り返されないよう平和を誓(ちか)いました。(高2風呂橋公平)

 証言した豊後恵美子さん(86)=中区=は進徳高等女学校(現進徳女子高)3年の時、学徒動員先の広島中央電話局(爆心地から約540メートル)で被爆。顔にやけどを負い、島へ運ばれました。周りの人々が次々亡くなる様子に耐(た)えられず、軍医に懇願して古里の能美島(現江田島市)に帰らせてもらったそうです。「国のために女学校の頃から働いたあの時代がまた来てはいけない」と訴(うった)えました。

 原爆で家族6人を失った奥本博さん(86)=中区=は金輪島に一時運ばれた父と会えなかったことをとても悔(く)やんでいます。連絡(れんらく)を受けて自ら向かいましたが、父は玖波町(現大竹市)へさらに移された後。追いかけましたが、父は亡くなっていました。川崎衣江さん(69)=南区=も、島へ移されたいとこと伯母の体験を紹介(しょうかい)しました。

 島には長年、慰霊碑がありませんでした。「広島原爆戦災誌」によると、約500人が運び込まれたと記述されていますが、正確な人数は分かっていません。事実が忘れられる危機感から、島に運ばれた父を亡くした田辺芳郎さん(79)=西区=の兄らが1998年、島の北西に慰霊碑を建立。慰霊祭を始めました。

 しかし参加者は高齢(こうれい)を理由に年々減り、最も少なかった2013年は6人に。兄の死後も守り継ぐ田辺さんらが関係者に参加を呼び掛け、今年は昨年の倍以上の68人が訪れました。田辺さんは「今後も多くの人が来てくれるとは限らない。若い世代に島の歴史や慰霊碑について知ってもらいたい」と話していました。

(2016年11月15日朝刊掲載)

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