Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第24号) 被爆地の教会
15年12月24日
あす25日はクリスマス。キリスト教で「イエスの誕生を祝う日」です。日本でもすっかり浸透し、華(はな)やかな飾(かざ)り付けをしたり、パーティーやプレゼント交換(こうかん)をしたりする日になっています。クリスマスを前に、被爆地の広島、長崎の教会を訪ねました。
あの日の記憶をとどめる十字架(じゅうじか)や鐘(かね)、世界からの善意によって建てられた聖堂がありました。毎年クリスマスの時季に奏でられ、被爆からの復興を支え続けた歌声も聴きました。そして、クリスマスは「平和の大切さを思い、平和の実現を願うとき」でもあると教わりました。
お互(たが)いを大切に思い、喜びを分かち合う―。こうしたクリスマスの精神は、被爆地の平和への願いとも重なります。今なお世界各地で紛争(ふんそう)があり、幼(おさな)い命を含め、人々が傷ついています。宗教や国、人種の違いを超えて、みんなが笑顔になれるときが早く来てほしいと思います。戦後・被爆70年のことしのクリスマス、平和について一緒に考えてみませんか。
<ピース・シーズ>
平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの45人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。
メサイア 歌い続ける
広島流川教会(広島市中区)の礼拝堂には、原爆で焼け焦(こ)げた木で組んだ十字架(縦2メートル、横1・2メートル)が掲(かか)げられています。クリスマスを前にした13日、この十字架の前で音楽礼拝があり、平和を願う「メサイア」が歌われました。
黒焦げの十字架は被爆を語り継ぐ教会の象徴(しょうちょう)です。向井希夫(まれお)牧師(55)=写真=は「平和な世界をつくるための力を私たちにくれる」と言います。
メサイアは、米国から復興支援のため届いた楽譜(がくふ)を基に、被爆2年後の1947年からクリスマスの時季に演奏され続けています。ことし、向井牧師は「被爆地でクリスマスを迎(むか)える者として、核兵器に代表される力による平和でなく、小さな存在が大切にされる真の平和を目指そう」と語(かた)り掛(か)けました。
教会は爆心地から約900メートルの上流川町(現中区)時代に被爆。建物は外壁だけ残して崩(くず)れました。移転や建て替えを経て、今の建物は5代目です。
70年前、自身も被爆しながら救護活動や建物の修復に当たったのが谷本清牧師(1909~86年)でした。48年秋から50年にかけて米国を回り、被爆の惨状(さんじょう)を紹介。「ノーモア・ヒロシマ」を訴え、米国市民の心を動かしたといいます。原爆で親を失った子どもの支援(しえん)、被爆した女性の米国での治療(ちりょう)にも力を尽(つ)くしたそうです。その行動力は素晴らしいと思いました。
ところで、原爆を投下した米国にはキリスト教徒が多数います。広島に原爆を落としたB29爆撃機エノラ・ゲイ号の搭乗員は出発前、従軍(じゅうぐん)牧師から、作戦が成功するようお祈りを受けたそうです。でもそれは、相手の死を願うことを意味します。相手の国にも多くの命が存在するということを想像できないのは恐ろしいことと感じました。
また、戦時中は、敵国の宗教だとして迫害(はくがい)を受ける一方、教会存続のため日本の必勝を祈る集い開催など戦争に協力した事実もあったそうです。過去の歴史を含めて、今ある自由を考えたいです。
「力を誇示(こじ)し合い、憎(にく)しみをあおれば戦争につながる。心と心が出会い、互いのことを考えられるようになれば平和が実現する」と向井牧師は言います。紛争(ふんそう)やテロの絶えない現代に生きる私たち一人一人がかみしめたい言葉です。(山田杏佳、17歳、中川碧、14歳、フィリックス・ウォルシュ、13歳)
笑顔の輪 宗教超えて
世界平和記念聖堂(広島市中区)は、カトリック広島司教区(しきょうく)の拠点(きょてん)で、幟町(のぼりちょう)教会の聖堂としても使われています。クリスマスに向けていろんな行事が続きます。6日の「聖堂で聴(き)くクリスマスの調べ」では、パイプオルガンや弦楽器(げんがっき)の温かな音色が響(ひび)きました。
聖堂は、1945年8月6日の原爆によって亡くなった人たちの慰霊(いれい)と追悼(ついとう)の場として54年に建てられました。幟町教会で被爆したドイツ出身のフーゴ・ラサール神父(1898~1990年、日本国籍(こくせき)取得後は愛宮真備(えのみや・まきび))が世界に呼(よ)び掛(か)け、鐘やパイプオルガン、ステンドグラスなどが各国から寄せられました。
広島司教区の肥塚侾司(こえづか・たかし)神父(74)=写真=は「原爆ドームが人間の恐ろしさを示す負の遺産なら、聖堂は恒久平和を実現しようとする祈(いの)りと決心を発信する建物」と言います。私たちも「平和」などの文字が刻まれた鐘を見て、聖堂が担う役割の大きさを感じました。
クリスマスについて、肥塚神父は「今や『超(ちょう)宗教的』なものになっている」と言いました。「イエスの誕生を祝い、おごそかに祈りをささげる」というキリスト教にとってきわめて大切な日であるとともに、宗教の垣根を越えて世界のみんなが楽しむ日になっているという意味です。
そして「今のクリスマスも悪くない」とも言います。「みんなが優しい気持ちになり、この日を笑顔で迎えることが平和の証し」だからです。「弱い人、困っている人のそばに寄り添い続ける」という教えがその背景にあります。
赤ん坊のイエスを慈しむ行為は優しさに通じ、差別やいじめをしないことにもつながります。サンタクロースのモデルとされる聖ニコラスが自分の財産を人々のために分け与(あた)えたのも、平和の活動の一つといえます。ことしのクリスマスはこんなことも考えながら過ごしたいと思います。(岩田壮、17歳、藤井志穂、14歳)
自由の喜び 鐘が鳴る
キリスト教徒が多い長崎市。爆心地の北東約500メートルにある浦上(うらかみ)天主堂は、1日3回鐘を鳴らし、祈りの時を知らせています。
でもこの鐘は、太平洋戦争時、自粛(じしゅく)ムードの中で鳴らされなくなりました。さらに1945年8月9日、米国が投下した原爆で天主堂は倒壊(とうかい)し、二つの鐘もがれきに埋(う)もれました。
鐘の一つは壊れていましたが、もう一つはほぼ無傷で見つかりました。信徒たちは木材を組んで鐘をつるし、その年11月23日の原爆犠牲者慰霊祭で復活の音を響かせました。クリスマス前の12月24日夜のミサでも鳴らされました。焼け野原に響く鐘の音は、復興に取り組む人々を勇気づけたそうです。
当時、鐘の音を聞いた、信徒で被爆者の深堀繁美さん(84)は「言葉にできないくらいうれしかった。『神の声』のように感じた」と言います。「キリストの誕生を祝うクリスマスに間に合ってよかった」という気持ち、そして「これからは何にも妨げられずに祈ることができる」という喜びもあったそうです。
深堀さんは「戦争はしてはいけない。平和な時代が続いてほしい」と願います。それはみんなの願いです。きょうはクリスマスイブ。浦上天主堂からは夜のミサに合わせ、いつものように祝福の鐘が鳴り響きます。(岩田壮、17歳)
(2015年12月24日朝刊掲載)
【編集後記】
広島流川教会の音楽礼拝を取材し、写真も担当しました。聖歌隊が「メサイア」や様々な讃美歌を披露していて、とても迫力があり素晴らしかったです。私はキリスト教系の学校に通っていますが、礼拝中に献金があるなど学校での礼拝とは少し違っていて、今まで自分が体験したことがなくとても新鮮な経験になりました。今回の取材では、クリスマスの本来の意味、そして平和を祈り続けることの大切さを学びました。(中川)
被爆地の教会と平和、そしてクリスマスについての取材で、僕は広島流川教会へ行きました。原爆で流川教会が崩れ落ちたことやそこからの復興などの話を実際に聞きました。正直言うと、「ひどい被害を受けたのに、この教会はよくこんなに続いてきたなー」と思いました。この取材から分かったことは、自分の周りの人や世界中の人たちの平和を願う事の大切さです。それが一番大事だと思いました。それはクリスマスに限らず言えることでしょう。すごく良い経験になりました。(ウォルシュ)
被爆地の教会を訪れて、ジュニアライターのみんなと見た短編映画「折り鶴」のラストシーンを思い出しました。原爆症のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんが最後に折った鶴がアメリカのクリスマスツリーに飾られていた場面です。そのことをカトリック広島司教区の肥塚神父に話すと、「とても意味のあるシーン。平和を願う思いに国境はないことを表している」と言われました。いつか世界中の全員が、今の時季を思い思いに楽しく過ごせるときが来ればいいなと思います。(藤井)
長崎の浦上天主堂を訪れたとき、被爆した鐘楼が崩れ落ちた当時のままの状態で残っているのが印象深かったです。多くの人に原爆の被害を知ってもらうために残しているのだと思いました。資料館や、爆風で片方の柱が飛んだ神社の鳥居の見学などを通じ、原爆の破壊力が強く心に残りました。広島でも長崎でも、被爆の状況を物語るこうした遺構や資料を大切にし、未来の世代に戦争の悲惨さを訴えていく必要性を感じました。(岩田壮)
クリスマスは、本来の意味を知っているかどうかで受け止め方がかなり違うのだと感じました。今年は誰かのこと、平和のことを考えながら過ごす日にしたいと思いました。記事にも書きましたが、B29爆撃機エノラ・ゲイ号が出発する前にお祈りをしたということがとても印象に残っています。誰が言ったのかは分かりませんが、「正義の反対は悪ではなく別の正義」という言葉が胸に突き刺さりました。(山田杏)
あの日の記憶をとどめる十字架(じゅうじか)や鐘(かね)、世界からの善意によって建てられた聖堂がありました。毎年クリスマスの時季に奏でられ、被爆からの復興を支え続けた歌声も聴きました。そして、クリスマスは「平和の大切さを思い、平和の実現を願うとき」でもあると教わりました。
お互(たが)いを大切に思い、喜びを分かち合う―。こうしたクリスマスの精神は、被爆地の平和への願いとも重なります。今なお世界各地で紛争(ふんそう)があり、幼(おさな)い命を含め、人々が傷ついています。宗教や国、人種の違いを超えて、みんなが笑顔になれるときが早く来てほしいと思います。戦後・被爆70年のことしのクリスマス、平和について一緒に考えてみませんか。
<ピース・シーズ>
平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの45人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。
あの日の記憶 クリスマスに祈る
核兵器の力による平和でなく、小さな存在を大切にする真の平和を2015
■広島流川教会
メサイア 歌い続ける
広島流川教会(広島市中区)の礼拝堂には、原爆で焼け焦(こ)げた木で組んだ十字架(縦2メートル、横1・2メートル)が掲(かか)げられています。クリスマスを前にした13日、この十字架の前で音楽礼拝があり、平和を願う「メサイア」が歌われました。
黒焦げの十字架は被爆を語り継ぐ教会の象徴(しょうちょう)です。向井希夫(まれお)牧師(55)=写真=は「平和な世界をつくるための力を私たちにくれる」と言います。
メサイアは、米国から復興支援のため届いた楽譜(がくふ)を基に、被爆2年後の1947年からクリスマスの時季に演奏され続けています。ことし、向井牧師は「被爆地でクリスマスを迎(むか)える者として、核兵器に代表される力による平和でなく、小さな存在が大切にされる真の平和を目指そう」と語(かた)り掛(か)けました。
教会は爆心地から約900メートルの上流川町(現中区)時代に被爆。建物は外壁だけ残して崩(くず)れました。移転や建て替えを経て、今の建物は5代目です。
70年前、自身も被爆しながら救護活動や建物の修復に当たったのが谷本清牧師(1909~86年)でした。48年秋から50年にかけて米国を回り、被爆の惨状(さんじょう)を紹介。「ノーモア・ヒロシマ」を訴え、米国市民の心を動かしたといいます。原爆で親を失った子どもの支援(しえん)、被爆した女性の米国での治療(ちりょう)にも力を尽(つ)くしたそうです。その行動力は素晴らしいと思いました。
ところで、原爆を投下した米国にはキリスト教徒が多数います。広島に原爆を落としたB29爆撃機エノラ・ゲイ号の搭乗員は出発前、従軍(じゅうぐん)牧師から、作戦が成功するようお祈りを受けたそうです。でもそれは、相手の死を願うことを意味します。相手の国にも多くの命が存在するということを想像できないのは恐ろしいことと感じました。
また、戦時中は、敵国の宗教だとして迫害(はくがい)を受ける一方、教会存続のため日本の必勝を祈る集い開催など戦争に協力した事実もあったそうです。過去の歴史を含めて、今ある自由を考えたいです。
「力を誇示(こじ)し合い、憎(にく)しみをあおれば戦争につながる。心と心が出会い、互いのことを考えられるようになれば平和が実現する」と向井牧師は言います。紛争(ふんそう)やテロの絶えない現代に生きる私たち一人一人がかみしめたい言葉です。(山田杏佳、17歳、中川碧、14歳、フィリックス・ウォルシュ、13歳)
■世界平和記念聖堂
笑顔の輪 宗教超えて
世界平和記念聖堂(広島市中区)は、カトリック広島司教区(しきょうく)の拠点(きょてん)で、幟町(のぼりちょう)教会の聖堂としても使われています。クリスマスに向けていろんな行事が続きます。6日の「聖堂で聴(き)くクリスマスの調べ」では、パイプオルガンや弦楽器(げんがっき)の温かな音色が響(ひび)きました。
聖堂は、1945年8月6日の原爆によって亡くなった人たちの慰霊(いれい)と追悼(ついとう)の場として54年に建てられました。幟町教会で被爆したドイツ出身のフーゴ・ラサール神父(1898~1990年、日本国籍(こくせき)取得後は愛宮真備(えのみや・まきび))が世界に呼(よ)び掛(か)け、鐘やパイプオルガン、ステンドグラスなどが各国から寄せられました。
広島司教区の肥塚侾司(こえづか・たかし)神父(74)=写真=は「原爆ドームが人間の恐ろしさを示す負の遺産なら、聖堂は恒久平和を実現しようとする祈(いの)りと決心を発信する建物」と言います。私たちも「平和」などの文字が刻まれた鐘を見て、聖堂が担う役割の大きさを感じました。
クリスマスについて、肥塚神父は「今や『超(ちょう)宗教的』なものになっている」と言いました。「イエスの誕生を祝い、おごそかに祈りをささげる」というキリスト教にとってきわめて大切な日であるとともに、宗教の垣根を越えて世界のみんなが楽しむ日になっているという意味です。
そして「今のクリスマスも悪くない」とも言います。「みんなが優しい気持ちになり、この日を笑顔で迎えることが平和の証し」だからです。「弱い人、困っている人のそばに寄り添い続ける」という教えがその背景にあります。
赤ん坊のイエスを慈しむ行為は優しさに通じ、差別やいじめをしないことにもつながります。サンタクロースのモデルとされる聖ニコラスが自分の財産を人々のために分け与(あた)えたのも、平和の活動の一つといえます。ことしのクリスマスはこんなことも考えながら過ごしたいと思います。(岩田壮、17歳、藤井志穂、14歳)
■浦上天主堂(長崎)
自由の喜び 鐘が鳴る
キリスト教徒が多い長崎市。爆心地の北東約500メートルにある浦上(うらかみ)天主堂は、1日3回鐘を鳴らし、祈りの時を知らせています。
でもこの鐘は、太平洋戦争時、自粛(じしゅく)ムードの中で鳴らされなくなりました。さらに1945年8月9日、米国が投下した原爆で天主堂は倒壊(とうかい)し、二つの鐘もがれきに埋(う)もれました。
鐘の一つは壊れていましたが、もう一つはほぼ無傷で見つかりました。信徒たちは木材を組んで鐘をつるし、その年11月23日の原爆犠牲者慰霊祭で復活の音を響かせました。クリスマス前の12月24日夜のミサでも鳴らされました。焼け野原に響く鐘の音は、復興に取り組む人々を勇気づけたそうです。
当時、鐘の音を聞いた、信徒で被爆者の深堀繁美さん(84)は「言葉にできないくらいうれしかった。『神の声』のように感じた」と言います。「キリストの誕生を祝うクリスマスに間に合ってよかった」という気持ち、そして「これからは何にも妨げられずに祈ることができる」という喜びもあったそうです。
深堀さんは「戦争はしてはいけない。平和な時代が続いてほしい」と願います。それはみんなの願いです。きょうはクリスマスイブ。浦上天主堂からは夜のミサに合わせ、いつものように祝福の鐘が鳴り響きます。(岩田壮、17歳)
(2015年12月24日朝刊掲載)
【編集後記】
広島流川教会の音楽礼拝を取材し、写真も担当しました。聖歌隊が「メサイア」や様々な讃美歌を披露していて、とても迫力があり素晴らしかったです。私はキリスト教系の学校に通っていますが、礼拝中に献金があるなど学校での礼拝とは少し違っていて、今まで自分が体験したことがなくとても新鮮な経験になりました。今回の取材では、クリスマスの本来の意味、そして平和を祈り続けることの大切さを学びました。(中川)
被爆地の教会と平和、そしてクリスマスについての取材で、僕は広島流川教会へ行きました。原爆で流川教会が崩れ落ちたことやそこからの復興などの話を実際に聞きました。正直言うと、「ひどい被害を受けたのに、この教会はよくこんなに続いてきたなー」と思いました。この取材から分かったことは、自分の周りの人や世界中の人たちの平和を願う事の大切さです。それが一番大事だと思いました。それはクリスマスに限らず言えることでしょう。すごく良い経験になりました。(ウォルシュ)
被爆地の教会を訪れて、ジュニアライターのみんなと見た短編映画「折り鶴」のラストシーンを思い出しました。原爆症のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんが最後に折った鶴がアメリカのクリスマスツリーに飾られていた場面です。そのことをカトリック広島司教区の肥塚神父に話すと、「とても意味のあるシーン。平和を願う思いに国境はないことを表している」と言われました。いつか世界中の全員が、今の時季を思い思いに楽しく過ごせるときが来ればいいなと思います。(藤井)
長崎の浦上天主堂を訪れたとき、被爆した鐘楼が崩れ落ちた当時のままの状態で残っているのが印象深かったです。多くの人に原爆の被害を知ってもらうために残しているのだと思いました。資料館や、爆風で片方の柱が飛んだ神社の鳥居の見学などを通じ、原爆の破壊力が強く心に残りました。広島でも長崎でも、被爆の状況を物語るこうした遺構や資料を大切にし、未来の世代に戦争の悲惨さを訴えていく必要性を感じました。(岩田壮)
クリスマスは、本来の意味を知っているかどうかで受け止め方がかなり違うのだと感じました。今年は誰かのこと、平和のことを考えながら過ごす日にしたいと思いました。記事にも書きましたが、B29爆撃機エノラ・ゲイ号が出発する前にお祈りをしたということがとても印象に残っています。誰が言ったのかは分かりませんが、「正義の反対は悪ではなく別の正義」という言葉が胸に突き刺さりました。(山田杏)