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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 在外被爆者・海外出身の被爆者

原爆の苦しみ 国を越え

 広島と長崎では、日本人だけでなく海外出身者も被爆しました。正確な人数は分かっていません。日本国外で暮(く)らし、被爆者健康手帳を持っている「在外被爆者(ざいがいひばくしゃ)」は、厚生労働省によると3月末時点で米国や韓国、ブラジルなどに2887人います。日本の植民地だった朝鮮半島から渡(わた)ってきて被爆した人たちは、戦後に帰った在外被爆者と、日本に暮らし続けている人がいます。中国新聞ジュニアライターは、在外被爆者と在日韓国人被爆者に、これまでの苦労や今の思いを取材しました。

戦後渡米した中野博子さん

後遺症の不安 相談できず

現地で証言活動や追悼集会

 米国では、日系人や結婚などで戦後渡米した636人の被爆者が暮らしています。カリフォルニア州ロサンゼルス市に住む中野(旧姓山崎)博子さん(79)に、テレビ会議システムを通じて聞きました。

 中野さんは4歳の時、爆心地から1・7キロの広島市段原大畑町(現南区)の自宅で被爆しました。母親、弟と家屋の下敷(したじ)きになりましたが、自力ではいだして助かったそうです。8人家族で、段原国民学校(現段原小)の5年生だった兄、芳男さんは焼け落ちた校舎で亡(な)くなりました。

 幼かった中野さんは、被爆した時のことをあまり覚(おぼ)えていません。家族は原爆の記憶を話さないようにしていました。

 1963年、日系3世の男性と結婚して渡米。米国では、原爆の後遺症(こういしょう)について知識のある医師が少なく、不安に感じても相談できなかったそうです。長い間、友人たちにも被爆者であると明かしませんでした。「米国で結婚した被爆者の中には、夫の家族から偏見(へんけん)の目で見られた人もいた」と言います。

 中野さんは「米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)」の理事をしています。被爆2世らを含め、会員は約100人。学校で証言活動をしたり、毎年8月にロサンゼルス市の高野山米国別院で原爆犠牲者の追悼集会(ついとうしゅうかい)を開いたりしています。米国は新型コロナウイルスの影響(えいきょう)が深刻(しんこく)ですが、何とか続けたい、とテレビ会議システムで法要を行ったそうです。

 「被爆者はどこにいても心の傷(きず)を抱(かか)え、子どもや孫への影響を心配している」と中野さん。日本から離(はな)れた場所で、被爆者たちは不安と立ち向かい、平和の大切さを訴(うった)えています。

広島の医師派遣 77年から北米で健康診断

 1977年、広島県医師会と放射線影響研究所(広島市南区)が北米で暮らす被爆者の健康診断(けんこうしんだん)を始めました。現在は国の事業ですが、県が代わりに担当し、県医師会の協力で2年に1度、行っています。

 県被爆者支援課の福原美百合さんと川本陽子さんが現地での様子を教えてくれました。被爆者が事前に受けた健診の結果を基に、派遣(はけん)された医師が症状(しょうじょう)を聞き取ったり、助言したりします。県や市の職員は、日本政府による医療費の助成制度の利用方法などについて質問に応じます。

 昨年はロサンゼルスやホノルルなど4都市と、カナダのバンクーバーを訪れ、計129人から相談を受けました。被爆者の高齢化で参加者は年々減っています。待ち時間中、福原さんたちに被爆体験を一生懸命に語りだす人もいるそうです。

 中野博子さんが所属するASAは、受付などを手伝っています。中野さんは「医師たちは広島東洋カープのユニホームに似た赤い服を着たり、広島弁で話してくれたりします。親しみやすく安心できます」と感謝していました。

 北米以外に南米ブラジルなどにも健診に出向いています。新型コロナの影響で今年の南米訪問は中止になりました。川本さんは「一日でも長く元気に過ごしてほしい」と思いをはせていました。

民族差別とダブルの苦難 在日韓国人2世 広島の李鐘根さん

隠し続けた真実 証言は後年から

 李鐘根(イ・ジョングン)さん(92)=広島市安佐南区=は、在日韓国人2世であり、被爆者であることを長年隠(かく)してきました。幼い頃から民族差別を受け、被爆により苦しみはさらに深くなりました。

 16歳だった李さんは75年前の8月6日、勤(つと)め先の広島鉄道局第二機関区に向かう途中(とちゅう)、広島駅の近くで被爆しました。爆心地から2・2キロで顔や首にやけどを負い、同僚(どうりょう)に機関車用の油を塗(ぬ)ってもらうと「生涯(しょうがい)忘れることのない痛み」を感じました。

 間もなく職場に復帰しましたが、朝鮮人であることを隠し続けるのが難しく、翌年に退職しました。日本式の名前を名乗り続け、被爆者であることを忘れようとしました。しかし、2012年に被爆証言をしながら世界一周をする船旅に参加したのを機に、体験を話すようになりました。「命はみな平等。国籍の違いは関係ない」。積極的に証言活動をしています。

 海外の被爆者を広島から支援し続けている人たちもいます。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部」世話人の豊永恵三郎さん(84)=安芸区=は、自分も被爆者です。韓国を訪れた1971年、日本と韓国どちらの政府からも手を差し伸(の)べられないまま、貧困や原爆の後遺症に苦しむ被爆者がいると知り、衝撃(しょうげき)を受けました。

 日本に住む被爆者と同じように、差別なく援護(えんご)を受けられるべきだ、と在韓被爆者たちが日本政府に求めたさまざまな裁判を約40年にわたり手伝いました。豊永さんは若者に対して「なぜ朝鮮半島出身の人たちが広島や長崎で被爆したのか。歴史を振(ふ)り返り、戦争や差別をしないためにはどうすればいいのか考えて行動してほしい」と願っています。

私たちが担当しました

 高2森本柚衣 高1四反田悠花 高1林田愛由 中2田口詩乃 中2武田譲 中1森美涼 中1吉田真結

 取材を通して中国新聞ジュニアライターが感じたことをヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。

(2020年10月26日朝刊掲載)

【取材を終えて】
~中野博子さんへの取材~

 海外に住む人への取材という貴重な体験をしました。中野さんは、米国で受けた被爆者の健康診断について「先生たちは広島弁で話し、白衣の上に広島カープのユニホームを着て、診察してくれる」と話しました。それを聞いて、私は、医師たちの日本人らしいおもてなし精神、そして故郷から遠く離れた場所に住む被爆者の方々の故郷に寄せる思いに触れることができました。(中2武田譲)

 私は在外被爆者の方に初めてお会いしました。これまでお会いした被爆者は、就職や結婚で苦労されたり、米国のことを憎いと思ったりする人が大半でした。しかし、今回取材した中野さんは、縁あって結婚し、被爆者であることで苦労したことはなかったそうです。そして、米国に対して悪いイメージがないということに驚きました。それでも「戦争はあってはならない」と断言しています。中野さんの言葉を聞いて、平和な世界を築くという思いが一層、強くなりました。(中1森美涼)

 「どの人も、もちろん心の傷は残っているけれど、それ以上に、子どもや孫への影響を心配している。被爆者にとって75年前に終わったはずの戦争はまだ終わっていない」。中野さんのこの言葉がすごく心に残りました。原爆によって負った身体の傷は治っても、心の傷は一生治りません。生まれてくる子どもに、放射線の影響があったらどうしよう、などと、本来なら心配しなくていいことを心配しないといけなくなってしまう。もう二度と起こしてはいけない、核兵器は何があっても廃絶すべきだとあらためて思いました。(高1林田愛由)

~在北米被爆者健診についての取材~

 原爆による病気の心配があること、「自分たちが伝えないといけない」と懸命に証言活動をされていること…。たとえ距離が離れていても、被爆者の方の思いは変わらないのだと感じました。だからこそ、北米のように日本と医療システムが違う場所での広島の医師たちによる健康診断は大切だと思いました。健康診断で心も身体も安心でき、それが、原爆が使われない未来への大きな役割を担っているように思いました。(中2田口詩乃)

 私が今回の取材で心に残ったのは、米国には日本のような健康診断の制度がないため、日本と同じ検査を受けるにはいくつもの病院を回らなければならないということです。広島県が取り組んでいる健康相談では、事前に受けた健康診断の結果を基に、広島の医師たちと久々に広島弁で話したり、スタッフの着ているカープ仕様の白衣で和んだりして、被爆者にとって懐かしく楽しい時間にもなるそうです。病気を早めに見つけて対応したり、相手を笑顔にしたりすることができるので、ずっと続いていってほしいです。(中1吉田真結)

~李鐘根さんと豊永恵三郎さんへの取材~

 今回は韓国人被爆者の李さんと、在韓被爆者を援助し続けてきた豊永さんにお話を聞きました。在外被爆者は、被爆したことに加えて、偏見・差別に苦しんでいると知りました。お話の中の「戦争はしてはいけない。平和という道はない。平和が道だよ」という李さんの言葉が印象的でした。今まで、戦争をなくすためにはどうすればいいのかと考えていた私にとって予想外の言葉でしたが、戦争を体験したことで平和への思いが強いのだと思いました。(中1森美涼)

 韓国人だからという理由で差別を受け続けた李さんの話を聞き、私は「被爆者はみな同じ命なのになぜだろう」という疑問がわいたと同時に、日本人は原爆投下というひどい経験をしてきたというイメージでしたが、国籍の違いから差別をしてしまったという事実を知りました。84歳で初めて韓国名を使うまでは日本名を用い、日本人の様に生きてきたという李さんの証言を聞き、何も悪いことをしていないのに自分の事を表現出来ないつらさは想像を絶するものだと思い、今の時代の幸せさを感じました。(高1四反田悠花)

 在外被爆者という言葉を知っていても、実際どのような問題を抱えているのか、どんなものか、詳しく知りませんでした。取材をして学んでいくにつれて、現在でも在外被爆者は差別を受けていることに衝撃を受けました。差別を無くすためにも、日本からの目線だけでなく、海外の目線から捉えるなどをして、今まで以上に視野を広げて、平和について考えることが大切さだと感じました。(高2森本柚衣)

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