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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 被爆者と認め救って

「健康手帳」制度 知っていますか

 皆(みな)さんは「被爆(ひばく)者健康手帳」について知っていますか。通常、手帳を持つ人が被爆者と呼(よ)ばれます。原爆の放射(ほうしゃ)線を浴びたり、放射線に汚染(おせん)された食べ物やちりを体に取(と)り込(こ)んだりすると、健康を害する恐れが一生つきまといます。手帳があれば「健康管理手当」の受給や、医療(いりょう)を実質無料で受けることが可能になります。どんな制度なのか、中国新聞ジュニアライターが取材しました。

広島市の担当者に聞く

県市が窓口 国籍問わず

 被爆者は全国に住んでいます。被爆者健康手帳の交付の申請(しんせい)は、国の代わりに各都道府県が窓口(まどぐち)になっています。ただし被爆者が多い広島は少し違(ちが)います。広島市内に住む人は、広島県ではなく市に書類を出します。長崎(ながさき)も同様です。

 広島市の原爆被害対策(ひがいたいさく)部を取材しました。援護(えんご)課の三好上総さん(40)は、申請を受けて審査(しんさ)する担当(たんとう)の一人です。

 被爆者援護法という法律(ほうりつ)に基づき、手帳を持つ「被爆者」には四つの分類があります。①直接被爆者②原爆投下後2週間以内に爆心地からおおむね2キロの区域(くいき)に入った入市者③救護・看護(かんご)、死体処理(しょり)に従事(じゅうじ)した人など④これらの人のお腹(なか)の中にいた胎児(たいじ)-です。今年3月末現在、全国で12万7755人が手帳を持っています。うち広島市は4万2191人で、市を除く広島県内は1万5616人です。高齢化が進み、人数は減っています。

 三好さんたちは交付を申請した人が1945年8月6日にどこにいたかや、軍人だった場合は軍歴など、昔の資料なども使って調べます。「以前は『証人』がいることが条件でしたが、今はいなくても審査しています」と話します。しかし2020年度の申請受け付けは59件でした。認定は21件です。却下(きゃっか)が多いことが分かります。

 日本国外で暮(く)らす人も、国籍を問わず手続きができます。以前はわざわざ日本に来なければならず、せっかく手帳を得ても国外では手当などが受けられなかったため、同じ被爆者なのに差があると問題視(し)されていました。今は、居住(きょじゅう)国の大使館が書類を受け付けます。手当も支給されます。海外に住んで手帳を持っている人は2785人です。

 最近、原爆が落とされた後に降(ふ)った「黒い雨」を浴びた被害者が、裁判(さいばん)に勝訴(しょうそ)しました。四つの分類の中に「黒い雨」とは書かれていませんが、③が「身体に原爆による放射能(ほうしゃのう)の影響(えいきょう)を受けるような事情(じじょう)の下にあった」人、とも定めていることに当てはめて、原告84人が新たに手帳を手にすることになりました。

 手帳の交付は、原爆被害に苦しむ被爆者が正当な権利(けんり)を得るのを支える仕事だと思いました。却下する際はつらい気持ちになりそうです。申請する人が76年も前のことを証明するのは大変です。お年寄りの願いに応えるため、何とか救う手だてがあってほしいです。

9月に受け取った貞金さん

「黒い雨」区域広がり感謝

 放射性物質を含(ふく)む「黒い雨」を浴びた人のうち、爆心地から北西に延(の)びる楕円(だえん)に収(おさ)まる区域にいた人は、第一種健康診断受診(しんだんじゅしん)者証という別の手帳をもらい、一定の病気になれば被爆者健康手帳に切(き)り替(か)わります。しかし、区域の外で雨を浴びた人が手帳を取得する道は閉(と)ざされていました。

 それはおかしい、と集団訴訟(そしょう)を起こして、広島高裁(こうさい)で勝訴したのが84人の原告でした。その一人、貞金末乃(さだかね・すえの)さん(79)=広島県府中町=は、9月に被爆者健康手帳を受け取りました。「うれしくて神棚(かみだな)と仏壇(ぶつだん)に手帳を供(そな)え、手を合わせた。多くの人に支えられ、感謝しかない」。同時に「手帳をもらえず、心身共に苦しみながら亡(な)くなった人たちを思うと胸(むね)が痛(いた)む」と顔を曇(くも)らせました。

 当時3歳(さい)だった貞金さんは、現在の広島県安芸太田町にあった自宅(じたく)近くの芋(いも)畑へ母親を呼びに行き、黒い雨を浴びました。「5歳ごろまで鼻血や高熱が出て、足が腫(は)れることもあった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 義兄(ぎけい)の松本正行さんは、原告団の副団長を務めていました。40年以上の活動が、勝訴として実を結んだのでした。しかし、松本さん自身は勝訴を見届(みとど)けることができず、昨年3月に94歳で亡(な)くなっています。

 裁判(さいばん)の結果を受けて政府は7月、裁判に参加していない「黒い雨」の被害者も救済(きゅうさい)する方針(ほうしん)を示しました。しかし、勝訴した人たちとは違い、すぐに手帳が支給されるわけではありません。国が具体的な基準を示してから、県や市が審査を開始するそうです。貞金さんは「みんな高齢化している。早く被爆者と認(みと)めてほしい。これから自分は、申請したい人を支援(しえん)したい」と話します。

 貞金さんは「自分で決めたことは最後まで貫(つらぬ)き通(とお)してほしい。戦争は絶対にだめ。平和のために頑張(がんば)って」と声を掛(か)けてくれました。戦争後も苦しく、悲しい思いをし続ける人が二度と出ない世界を築くことが私(わたし)たちの役目だと思います。

申請「却下」された山下さん

悩み苦しみ否定され「悔しい」

 指定区域外で「黒い雨」を浴びた人だけでなく、被爆者への差別を心配して手帳交付を申請してこなかったり、申請したのに却下されたりした「被爆者」がいます。山下祝子(ときこ)さん(84)=広島市安芸区=は、原爆投下の2日後に広島市内を歩きましたが、入市者として手帳を持つことはできていません。

 当時、中野国民学校(現安芸区、中野小)の3年生でした。父憲三(けんそう)さんが安芸中野駅の助役で、原爆投下当時は国鉄の官舎にいました。爆風で自宅の窓(まど)ガラスが割(わ)れ、砂(すな)ぼこりが舞(ま)ったのを覚えています。

 8日になり、宇品御幸(うじなみゆき)(現南区(げんみなみく))に住む親戚(しんせき)の安否(あんぴ)を確かめようと、2人で官舎を出発しました。広島駅から歩いて猿猴(えんこう)橋を渡(わた)り、段原(だんばら)を通りました。

 幸い、親戚は無事でした。帰り道、何かの工場の近くに缶詰(かんづめ)が転がっていました。おなかがすいて「食べたい」と思いましたが、憲三さんに止められました。現在の広島市郷土資料館(きょうどかん)(宇品御幸2丁目)の建物が、戦地に送る缶詰を製造していた陸軍糧秣支廠(りくぐんりょうまつししょう)だったことと、状況は符合(ふごう)します。

 戦後に結婚(けっこん)して長女を産みましたが、9カ月で病死しました。悲しみに暮(く)れていると、原爆傷害(しょうがい)調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所(げんほうしゃせんえいきょうけんきゅうしょ)の職員が家に2回来て詳(くわ)しく聞かれました。被爆したことが初めて不安になりました。

 その後7年間暮らした名古屋市では、周りに被爆者がおらず原爆について考える余裕(よゆう)もありませんでした。再び広島に戻(もど)り、近所の人の多くが手帳を持っていると知りました。

 すでに憲三さんと親戚は亡くなっていました。安芸中野駅に勤(つと)めていた人を捜(さが)し当(あ)てて「証人」になってもらい、1980年に申請しました。2年もたってから「取下げ」と判が押(お)された書類が広島市から送り返されてきました。「入市状況の立証に困難(こんなん)がある」とだけ書かれていました。事実上の却下です。

 山下さんは「被爆者だと認めてもらえず悔(くや)しい」と思い続けています。再度申請できないか、と考えるようになりました。手帳の交付は、医療費や手当の問題というだけでなく、被爆者として悩(なや)み苦(くる)しんだことを否定(ひてい)されず、認められることでもあるのだと気づかされます。

    ◇

 山下祝子は私の祖母です。広島市援護課によると、一度「却下」された人が再申請することはできるそうです。ただ、新しい手掛(てが)かりなどがないと認定は難(むずか)しくなります。最近では「証人」がいることを条件として求めていませんが、いれば審査する時の手掛かりが増え、認定されやすくなるようです。これから手帳についてもっと知り、今まで諦(あきら)めていた人たちがどうしたら申請できるかを、伝えていきたいです。(山下裕子)

私たちが担当しました

 この取材は、高2岡島由奈、四反田悠花、高1中島優野、中2谷村咲蕾、中1山下裕子が担当しました。

 取材を通して中国新聞ジュニアライターが感じたことをヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。

(2021年11月16日朝刊掲載)

 「被爆者健康手帳」は私たちにとっては決して身近なものではないため、取材を通して学ぶことが多くありました。審査の結果、認定された数より却下された件数の方が圧倒的に多いことに驚きました。これは申請者の方の76年前の状況等を調べることは容易ではないことを示すと感じると同時に、認定には援護課の職員の方の努力もあると知りました。

 被爆者の方たちの高齢化が進む中で、若い世代の私たちが知っておかないといけない情報だと思いました。一人でも多くの方が被爆者健康手帳を発行できることを願いつつ、私自身も、知識を深めていきたいです。(高2四反田悠花)

 私はこれまで、被爆した人が被爆者健康手帳を申請するとほとんどの人が交付されるのだと思っていました。しかし実際は3分の2の方が却下されていると聞いて驚きました。職員の方は法律に基づいて認定をしているものの、却下された方は被爆したことを否定されていると思うなど、納得がいかないこともあると思います。

 山下さんへの取材では、「被爆者なのに被爆者だと認められていない」と話していたことが、心に残に残りました。被爆したことで悩んだこともあったのに、認められていないことが悔しいと言いました。被爆者健康手帳を持つということは、医療費が補助されるというだけでなく、被爆者と認められることになるのだと気づきました。山下さんのように手帳を持ちたくても持てない人だけでなく、逆に被爆者であることを知られないよう申請しない人もいると思います。どうすればいろんな人たちが納得できるようになるのか、考えていきたいです。(高1中島優野)

 私は被爆者健康手帳のことについて少しは知っていたつもりでしたが、今回の取材で、知らないこともたくさんありとても勉強になりました。私の祖母は以前手帳を申請した時、「取下げ」という形になりました。「却下」と「取り下げ」では本当は意味が違うそうです。在外被爆者も手帳がもらえることも初めて知りました。私は、手帳は広島や長崎に住んでいる人だけがもらえるものだと思っていました。大使館などに行って、日本人だけでなく外国人も申請できることに驚きました。これから手帳についてもっと勉強して、今まで諦めていた人たちにどのようにしたら申請でき認定できるかなどを伝えていきたいです。          (中1山下裕子)

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