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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 原爆ドーム 世界遺産登録25年 被爆の証人 いつまでも

 原爆による倒壊(とうかい)をかろうじてまぬがれ、広島を訪(おとず)れる国内外からの人々に核兵器のむごさを無言で訴える「原爆ドーム」。1996年に世界遺産に登録されてから25年を迎えました。中国新聞ジュニアライターは、後世に残そうとする行政や、ドームに被爆前の思い出を重ねる人、核なき未来への希望を託(たく)す被爆者たちを取材しました。

5回目の保存工事

破壊された外観 後世へ

 原爆ドームは1915年に「広島県物産陳列館(ひろしまけんぶっさんちんれつかん)」として完成しました。設計したのはヤン・レツルというチェコ人の建築家。被爆した45年当時は「広島県産業奨励館(ひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)」と呼ばれていました。

 それから22年後の67年を最初に、これまでに計5回の保存工事が行われています。広島市公園整備課の大野木博之さん(29)によると、保存工事は「被爆前からあったオリジナルの部分には、可能な限り手を加えない」という方針で行われています。「被爆直後の外観を保ちつつ、永久保存することのどちらも目指している」そうです。

 だいたい3年ごとに、劣化(れっか)部分を調べる健全度調査もしています。雨風にさらされた建物の状態を知っておく必要があるからです。

 4回目の保存工事では、「南海トラフ地震」を想定して最大震度6弱に耐えるように、外観を変えずに新しい鋼材(こうざい)で補強しました。先月末に終わった5回目では、米軍が原爆投下後に撮影した写真を参考に、頂上の楕円(だえん)形の鋼材などを、当時に近いとされる焦(こ)げ茶色に塗(ぬ)りました。柱のひび割(わ)れの補修は、職人の手作業が中心でした。

 大野木さんは「工事について問い合わせが多くあり、市民の関心の高さを実感した。身が引き締まる思いだった」と話しました。取材を通じて、原爆ドームが多くの人の思いによって今まで存在してきたことの重みを感じました。そして、原爆で破壊(はかい)された状態を残すことの難しさを知りました。一日でも長く後世に残すために、私たちはこれからも知恵を出し合うことが必要だと思いました。

奨励館の思い出

友と遊んだ心躍る場所

 森冨茂雄さん(91)=広島市西区=は、原爆ドームを見ると、幼い頃の楽しかった思い出がよみがえってくると言います。被爆前、父親はそばの細工町(さいくまち)(現大手町)で寝具店を営(いとな)んでいました。島病院(現島内科医院)の4軒隣(となり)でした。

 近所の友だちと「陳列館に行こう」というのが口癖(くちぐせ)だったそうです。「1階で映画が上映されていて、見るのが楽しみだった」。広い庭園では、ビー玉やめんこ遊び。目の前の元安川で泳いだ後、建物の塀(へい)に上って涼みました。子どもたちにとって「心躍(おど)る場所」だったそうです。

 1945年8月6日、島病院の上空約600メートルで原爆が爆発し、日常は一瞬(いっしゅん)にして奪(うば)われました。寝具店の近くにあった自宅には、父親たち5人がいました。市立造船工業学校(現市立広島商業高)3年だった森冨さんは動員先の工場で被爆。後日、自宅の焼け跡(あと)で見つけた骨を家族5人のものだと信じ、拾い集めました。

 60歳ぐらいから鉛筆画を描(えが)き始めました。記憶を頼りに、被爆前の爆心地の周辺を鳥瞰図(ちょうかんず)のようなアングルで細かく再現。被爆直後の様子を含めて50枚仕上げました。

 「被爆前の街並みを知らない子どもたちに見てもらいたい」。県産業奨励館を描いたものが多いのは、幼い頃の一番の思い出を残したかったからだそうです。

保存の経緯

悲惨さ「うったえて」 亡き少女の願い 共感の輪

 原爆被害から広島が立ち直る過程(かてい)で、多くの焼け残った建物が姿を消しました。原爆ドームにも解体を望む声がありました。「見るたびつらい体験の記憶がよみがえる」と思う人もいたのです。

 保存することにみんなが納得し、さらに世界遺産に登録されるまで、どんな変化があったのでしょうか。原爆資料館元館長で被爆者の原田浩さん(81)=安佐南区=が教えてくれました。

 保存に向けて話が進んだきっかけは、被爆して白血病で亡くなった高校生の楮山(かじやま)ヒロ子さんが残した日記です。「産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」。共感した広島の子どもたちが署名活動を始め、輪は国内外に広がりました。

 被爆から21年後に、広島市議会が保存を決定。市民団体などが約165万人分の署名を集め、1996年には世界遺産に登録されます。当時原爆資料館の館長だった原田さんは「建物の状態自体が、原爆の悲惨さを伝えている。それを未来に残す意義を皆で共有した」と振り返ります。

 原田さんは、6歳の時に爆心地から2キロの広島駅(南区)で被爆しました。体験を証言する活動の中で「原爆ドームは欠かせない存在」です。また、東日本大震災の被災地にも足を運び、ドーム保存の歴史を被災者に語っています。広島の人たちの経験は、震災の記憶を風化させないため、津波に遭(あ)った建物を残したいと考える人たちの心の支えにもなっているそうです。

私たちが担当しました

 この取材は、高3森本柚衣、高2長田怜子、桂一葉、岡島由奈、四反田悠花、林田愛由、高1山広隼暉、中3小川友寛、田口詩乃、山瀬ちひろ、俵千尋、畠山陽菜子、中2小林由縁、相馬吏子、谷村咲蕾、中野愛実、森美涼、吉田真結、中1戸田光海、山下裕子、山代夏葵が担当しました。

 取材を通して中国新聞ジュニアライターが感じたことをヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。

(2021年5月17日朝刊掲載)

【取材を終えて】

~市公園整備課の大野木さんへの取材~

 今回の取材でうかがったお話の中で最も印象的だったのは、原爆ドームは永久保存することが目標だということです。工事や保護を行っても、保存には限界はあり、それは仕方がないと思っていました。しかし「永久」という言葉から、原爆ドームのように目に見える形で原子爆弾の恐ろしさを感じられるものがあることの重要さが分かりました。何十年、何百年先の人たちにもドームを通じて平和の大切さを感じてもらえるよう、永久保存という目標をもっと多くの人に知らせていきたいです。(中2吉田真結)

 原爆ドームは多くの人の手によって、今ここに在る。今回の取材で、そう強く感じました。保存工事という観点だけでも、募金をされた方、施工者の方やドームの調査をする方、管理をする市職員の方など数え上げればきりがないほどです。劣化や災害による倒壊の危険がある中で、それでもこれほどの人が原爆ドームを後世に残そうとしている。このことは、原爆ドームが残した傷痕をなくしてはいけないという思いだけの表れではない、と思いました。

 私はここに、原爆ドームを目の当たりにして、核兵器の恐ろしさや戦争の愚かさ、さらには平和について考えてほしいという思いがあるのではないかと考えました。そういう意思が原爆ドームを支える力になっているように思います。

 広島で育ってきた私にとって、原爆ドームは当たり前にそこに在るものでした。小さい頃から何度となく目にし、そのたびに、あの日のことを考えさせられます。たとえ間接的であったとしても、こうして発信することで、私も原爆ドームを残す力になれたらいいと思います。(中3田口詩乃)

 今回、大野木さんは「歴史を知ることで見方が変わる」と話しました。原爆ドームは元々、広島県物産陳列館として建てられました。広島の人たちは観光名所として大切にしていた建物だと思います。それがたった一瞬で残酷な姿に変わってしまったという事実を知らないと見えない景色があるなと感じました。

 私は戦争前の姿は見た事ないけれど「原爆ドーム」は日頃から身近なものです。原爆ドームとしての形をずっと先の後世まで残せるように広島に来てくれる人、興味がある人に1945年8月6日の事や、被爆前の事も正確に分かりやすく伝えていきたいとあらためて感じました。(中3山瀬ちひろ)

 私はこれまで、原爆ドームを未来へ残すための行程について、意識して考えたことありませんでした。それは、原爆ドームが広島の街にあることを当たり前だと感じているからだと思います。今回の取材で、被爆当時の景観をいかに忠実に後世へ残せるかどうかが大切であることを学び、一つでも多くの情報を知ることが永久保存へつながるのではないかと考えました。また、建物自体を残すか残さないかの議論があったことを知り、今の姿を見ると到底想像のつかないことだと思い、現在保存方法について討論されている旧陸軍被服支廠との共通点を感じました。(高2四反田悠花)

 「原爆ドームが被爆前、建物として息づいていたことを意識すれば、見え方が変わるのでは」という大野木さんの言葉が心に残っています。私にとって原爆ドームは、小さい頃から最も身近な原爆の象徴です。今まで、「産業奨励館」という名だった頃に思いをはせることはめったにありませんでした。75年という時を経て、現在もあの日のことを静かに力強く訴え続けている被爆建物たち。被爆時のことだけでなく、それ以前の様子も想像することで、より「自分ごと」として原爆を捉えられることを学びました。(高2岡島由奈)

~原田さんへの取材~

 原田さんへの取材で特に心に残ったことは、主に3つあります。1つ目は、原爆資料館リニューアルに不満がある、いうことです。8月の炎天下の中、人が腐っていく臭いを伝える、あの展示されている衣類の中にどんな人がいたか伝える、ということができていないそうです。広島は、もっと被爆者の声に耳を向けるべきだと思いました。

 2つ目は、ピースツーリズムについてです。初めて聞く言葉でした。「市内にある主要な平和関連施設などを巡ることで、平和とは何かを考え、思いを巡らせ、世界の人々がその思いを共有することを目的としている」とホームページには載っています。小学校などの地域、資料館、行政が一体となって行うことが大切だと原田さんに聞いたので、私も協力したい、と思いました。

 私の学校は旧工兵隊跡地にあり、被爆クスノキ、被爆サクラ、被爆クロマツが植えられています。もう寿命が近づいてきているそうなので、多くの人に見てもらえたらな、と思いました。

 3つ目は、東日本大震災のことです。原爆と東日本大震災がつながっているとは思っていませんでした。しかし今回、繋がりがあることを知りました。それは、被爆・被災の跡をどうやって残していくか、ということです。被災地で、小学校などを残すか議論になった時、原爆ドームはどうやって残したのか原田さんがお話ししたそうです。原爆ドーム保存は、あの惨状を後世に伝えるだけでなく、こういうことの参考にもなるのだな、と思いました。最初に原田さんがおっしゃった、中国新聞社が、平和のメッセージを発信してくれるのはありがたい、頑張ってほしい、ということを忘れず、これからも頑張りたいです。(中1戸田光海)

 私は、今回初めて被爆建物の保存についての活動の話を聞きました。今までは、被爆者の方々の被爆体験を聞いて、被爆体験を多くの人に知ってもらって平和の大切さを伝えなくてはいけないと思っていました。しかし、原田さんの話を聞いて、被爆体験だけでなく、実際に被爆した建物を残すことで、写真では感じられない建物の雰囲気や被爆した状況などが肌で感じられ、多くの人に平和の大切さ知ってもらうことができることがわかりました。平和の大切さを伝える方法は1つではないことを知ることができてよかったです。(中1山下裕子)

 原田さんの話を聞いて私は、驚いた事がありました。それは、原爆ドームを世界遺産に登録するまでの過程です。私は取材をするまで、その事を知らず原爆ドームを見ていました。なんと、原爆ドームは165万人の署名のおかげで世界遺産に登録されました。一方、同じ被爆地である長崎には大きなモニュメントがありません。165万人の思いも考えながら、今後も多くの人にヒロシマの被爆者の願いを伝えたいと思います。(中1山代夏葵)

 原田さんがおっしゃられた「被爆者名簿からは、何年たっても出ることはできない」という言葉が、今回の取材で一番心に残りました。何年も時が過ぎて世界が平和になり、世界から核兵器が消えたとしても事実は消えないし、傷も完全にいえることはないという意味だと捉え、確かにそうだなと思いました。そして、何年たっても、あの日の伝承や平和の発信も終わることはないとあらためて気づかされました。私たちが被爆者から直接お話が聞ける最後の世代だということもあらためて実感しました。

 あの日の惨状をどう受け継ぎ伝えるのか、伝承者が質を高めて自分のものにするには、そして、これからも変わらず被爆体験を原点にし続けるにはどうすればいいかを私たちが今、考えなければいけないと思いました。(中2小林由縁)

 原田さんは「オバマ大統領の来日は価値あるものだが、何も行動に移していない」と言い、いまだに核兵器を持っている現状について遺憾に思っているそうです。原田さんが願っている平和な世界を実現するために、広島人として、原爆の恐ろしさや被害を伝えて、原爆を正当化する考え方をなくしていきたいです。また、有言不実行の人を生み出さないために平和教育などを活発にするべきだと思いました。(中2谷村咲蕾)

 原田さんは遺体のにおいをかいで欲しくないけれど、そのにおいを知ってほしいと言っていた。私たちは原爆を直接体験していないので、その理解には限界はあると思う。その限界をいかに超えるかということを意識して、取材していきたいと思った。これからもっと、その時の惨状を語れる被爆者の方が少なくなってくるので、被爆者の方から受け継いだことを、しっかりと受け止め、またそのことを深く考えることが大切だと思った。(中2相馬吏子)

 原田浩さんはお話の中で「原爆ドームを残して良かった」と強く断言しており、心からの言葉だからこそ身にしみて感じました。また、原爆ドームについてこう語っていました。「残す、残さないという域を越えて中心的な存在になっている。残さないという選択肢はなかった」と。被爆者、原爆ドームの世界遺産登録に携わった人だから言える言葉が心に響きました。被爆していない私もいつか「原爆ドームを守り続けて良かった」と思えるよう、より一層平和活動に取り組んでいきたいです。(中2森美涼)

 原爆ドームの保存を訴える署名が4カ月足らずで165万人集まり、世界遺産登録につながったと知り、スピードに驚いた。一方で、ドームを見ていまわしい記憶を思い出すのが嫌で、保存したくないという人もいたという。そのような人たちの揺れ動いた気持ちも、私たち若い世代は忘れずにいたい。「戦争の遺構を残すべきだ」と何度も原田さんは言われた。原爆ドームや被服支廠などの遺構は、戦争や原爆が本当に身近な場所であったことを教えてくれる証人だと思う。大切にしていきたい。(中2中野愛実)

 今回、原田さんへ取材をして僕が最も印象に残ったことは「被爆資料を見る上で最も大切なのは、その資料から想像を膨らませることだ」と原田さんがおっしゃっていたことです。

 原田さんは、原爆資料館に展示されている被爆した衣服の数々について「その服を着ていた人はどんな人だったのか、想像してほしい」と語られました。僕は今まで被爆資料について、その変わり果てた姿に衝撃を受けるばかりで、その衣服を着ていた人の苦しみ、痛みなどを考えることまでできていませんでした。しかし、それを考えることは原爆を考える上で最も大切なことだと思います。今回教えていただいたことを胸に、もう一度資料館を回り、被爆した方々の思いを少しでも感じとりたいです。(中3小川友寛)

 今回の取材で、原爆ドームが広島の平和活動に多くの影響を及ぼしていることが分かりました。原田さんは何度も「原爆ドームがあることで8月6日の悲劇を忘れず、次の世代へつなげることができる」とおっしゃっていました。その言葉を聞いて、私の中で原爆ドームをこれからも残していかなければならないという気持ちが一層高まりました。被爆者が減っている今、体験談は話せなくても、実際に話を聞いた私たちが物や資料を通して次の世代に伝え、行動に出なければいけないと感じました。ジュニアライターの活動でも、私が書いた文章を読んでもらうことで多くの人に発信し、平和活動に貢献したいです。(中3俵千尋)

 原田さんは「シンボルが無いと記憶から消えてしまう」と、おっしゃっていました。原爆ドームがない広島の街は想像できません。シンボルがあることの大切さを教えてもらいました。考えてみると、多くの観光客に来てもらうことも難しくて平和活動も今みたいに盛んに行われていなかったかもしれません。原爆ドームを被爆者の方が見たくないと思っても、残そうと決めてくださったことで原爆の恐ろしさを私も目で見て知る事ができています。そのため、私は見ることができたことをよしと思わず、どのように後世に残していくか、被爆前はどのような感じだったのかよく学び、被爆者の方から聞いた体験談を未来に伝えていきたいと思いました。(高2桂一葉)

 私は、「被爆後の様子を隠すことなく、そのまま原爆資料館に展示すると、誰も来なくなるだろう、自身でさえ入れないかもしれない」という原田さんの言葉の意味が分かるまでに時間がかかりました。それほど悲惨な状況を、経験のない人が言葉を用いて伝えるというのは容易なことではないことだと改めて認識し、難しさについて考える良い機会になったと思います。被爆者の方の高齢化が進む中、私にできることはより多くの証言を聞き、自分の言葉として発することが出来るようになることを最終目標として掲げ、時間の限り取材し、深く考えることではないだろうかと感じました。(高2四反田悠花)

 原爆ドームがどのような流れで保存が決まったのか、というお話の中で原田さんがおっしゃっていた「原爆ドームを視界から消す(取り壊す)ということは、私たちの記憶から消してしまうということ」という言葉がとても印象的でした。確かに、私達人間は覚えていたいことでも時の流れとともに少しずつ忘れてしまうものです。それを防ぐためには忘れたくないこと、覚えておきたいことに関する物を見たりすることでしっかりと記憶しておくことができます。その点で原爆ドームの保存は、被爆経験のない世代の人々へ当時の悲惨な状況を伝える、とても重要な役割を果たしていると感じました。

 また、これは原爆ドームだけではなく、被災地の遺構保存についても同じことがいえると思います。被災地の遺構も保存されることで震災の恐ろしさを思い出し、さらに防災意識を高めることができると思います。(高2長田怜子)

 今回の原田さんのお話で、戦争や災害の遺産を受け継いでいくことは簡単ではないということをあらためて知りました。私たちのような、実際にその悲惨な経験をしていない人は、その遺産を見て初めて、当時起こったことが現実に起こったことなのである、と実感することができます。けれど、実際に経験した人にとっては、つらい記憶をありあと思い出させるものになってしまいます。どちらも両立させることは難しいけど、今の時代はデータで残すこともできるから、現物を残すことだけにとらわれずにさまざまな視点から考えることが大切だと思いました。(高2林田愛由)

~森冨さんへの取材~

 兵隊で戦地に行っていた兄以外の家族を原爆で亡くしたのが、たった15歳でした。被爆当時、森冨さんは学徒動員に行っていて被爆しました。家族が被爆した場所も分からないまま、原爆投下後から3日間、家族を探すために、可部から市中心部へ歩いて向かう姿を想像すると胸がつまりました。1人で恐怖と孤独でいっぱいだったと思います。「手を取り合って生活してほしい」という森冨さんの思いから、家族や友人のように一緒にいる人と支え合うことが大切だと思いました。(高3森本柚衣)

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