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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 終戦の日スペシャル 「毒ガスの島」大久野島を歩く

遺構に残る加害の歴史

 瀬戸内海の大久野島(竹原市)は「ウサギの島」として人気の観光地ですが、ここはかつて旧日本軍が秘密裏に毒ガスを製造した「毒ガスの島」でした。秘密を守るため存在は隠(かく)され、戦中は地図からも消されていました。中国新聞ジュニアライターは、夏休みにボランティアガイド山内正之(やまうちまさゆき)さん(77)の案内で、大久野島の歴史を取材しました。きょう15日は終戦の日。私たちが巡った主な場所を紹介します。

 広島駅から高速バスで約1時間半。竹原市の忠海駅前に山内さんが出迎えてくれました。忠海港に移動した後、船に乗って島へ。

 島にはウサギとの触(ふ)れ合い目当てに来る観光客の姿が多く見られましたが、私たちはまず毒ガス資料館を見学しました。続いて、毒ガス製造の歴史を今に伝える貯蔵庫跡(あと)や発電所跡などを歩いて巡りました。

 島内には戦争遺跡がたくさん残っています。その静かなたたずまいは当時から時が止まっているようで、私たちは遠い昔の出来事を肌身(はだみ)で感じることができました。

 山内さんが繰り返し語った「戦争は被害だけではなく、加害も生むことを忘れてはならない」「過去の歴史から学び、未来に生かしていくことが大切」という言葉が胸に響(ひび)きました。大久野島は多面的に戦争を学べる場所です。その歴史を多くの人に知ってほしいです。

毒ガス資料館

工員手帳や防護服展示

 毒ガス資料館には、大久野島で製造された毒ガスについての詳(くわ)しい解説や毒ガス製造装置、作業に従事した人の工員手帳、防護服などが展示されていました。

 防護服はゴム製。山内さんによると、全員分までは支給できず、複数の人で使い回したそうです。そのため、もろくなった部分やわずかな隙間(すきま)から気化した毒ガスが入り込み、気管支炎などにかかる例が後を絶たなかったといいます。しかし作業に従事した工員たちは何を製造しているか知らされていませんでした。

 それだけではありません。大久野島で造られた毒ガスは中国での実戦で使われ、敗戦後は遺棄(いき)され、戦後も被害が報告されています。化学兵器禁止条約によって日本は処理の義務を負っています。

長浦毒ガス貯蔵庫跡

島内最大 山切り開き建設

 島内に残るうち最も大きい貯蔵庫跡(あと)です。山を切り開いて造られ、土手と木で海の向こうからは見えづらくされています。イペリットやルイサイトなど皮膚(ひふ)障害を起こす毒性の高いガスが貯蔵されていました。六つの部屋に直径4メートル、長さ11メートルのタンクが1基ずつ置かれていたそうです。多くの人の命を奪(うば)う毒ガスが大量に貯蔵されていた場所に立ち、恐ろしさを実感しました。

発電所跡

保存運動実り 取り壊し回避

 毒ガス製造のための発電が行われた発電所跡です。秘密を守るため、本土側から見えないよう海岸との間に土手が築かれています。米国に向けて飛ばす「風船爆弾」の気球に、穴が開いていないか確認するテストも行われました。学徒動員された女学生たちが造った気球は、直径約10メートルもあったそうです。

 一度は取り壊されそうになりましたが、平和学習に来ていた中学生たちが署名活動をしたり、当時働いていた人たちが保存の訴(うった)えをしたりして今も残っています。

北部砲台跡

タンク置き場として使用

 険しい山道の先に北部砲台跡(ほうだいあと)がありました。明治時代には瀬戸内海に外国船が来た時のための砲台として使われ、第2次大戦中には毒ガスのタンク置き場にされました。日本の戦争の歴史を感じられると同時に、戦争の非道さを強く訴える場所です。

大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑

1000人が今なお後遺症患う

 「大久野島毒ガス障害死没(しぼつ)者慰霊碑(いれいひ)」は、大久野島の毒ガス製造工場で働いて呼吸器に障害を負うなどして亡くなった人たちを悼(いた)む碑です。4055人の名前が刻まれています。毎年秋、大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会の主催で、慰霊式が行われています。大久野島で作業に従事した人は約6700人ほどいたとされますが、正確な数は分かっていません。敗戦から77年がたつ現在も約千人が慢性(まんせい)気管支炎(えん)などで苦しんでいます。

「学徒の命より秘密保持を優先」

動員された岡田さんメッセージ

 動員学徒として大久野島で作業に従事した岡田黎子(おかだれいこ)さん(92)=三原市=から、ジュニアライターにメッセージが届きました。そこには、岡田さんの戦時中の体験と共に、平和への思いがつづられていました。

 忠海高等女学校2年生だった岡田さんは、1944年11月から敗戦まで大久野島で、発煙筒(はつえんとう)作りや毒ガス缶の運搬(うんぱん)、風船爆弾に使う気球造りなどをしました。

 どの作業も危険と隣り合わせでした。毒物が付着した粉じんを吸い込んで肺を冒(おか)された人もいました。しかし学徒の命より島の秘密を守ることが重要視され、けがをしても親の見舞いも寄せ付けません。岡田さんが缶の中身を知ったのも終戦から40年以上たってからだそうです。

 被爆直後の広島で負傷者の救護活動にも動員された岡田さん。「戦争の被害と加害の両面体験者」として体験を語り続けています。

 メッセージには「過去を直視すること」の大切さや「おかしいな?と思うことには臆(おく)することなく声をあげ、連帯して立ち上がって」という内容が書かれています。私たち一人一人が過去に学び、平和を創らなくてはと思いました。

私たちが担当しました

 この取材は、高3佐田よつ葉、高2中島優野、高1田口詩乃、中3相馬吏子、谷村咲蕾、中野愛実、中2川本芽花、山下裕子、中1川鍋岳 岡田さんの記事は高3桂一葉が担当しました。

(2022年8月15日朝刊掲載)

[取材を終えて]

 「前事不忘 后事之師」。大久野島を見学する前、山内さんに教えられた言葉です。「過去のあやまちを忘れず、その教訓を未来に生かす」という意味で、人類が犯した「あやまち」である戦争を二度と繰り返してはならない、という山内さんの力強い訴えが胸にひびきました。現地では、毒ガスの被害者の痛ましい姿の映る写真を目にし、戦争の恐ろしさ、その戦争を起こした人間の愚かさを痛感しました。
 現地を歩いて最も印象に残ったのは、北部砲台跡です。かつて真下の海岸では毒ガスの発射実験が行われたと聞き、現在との景色の違いに驚きました。実験の様子を見学させられたという女学生たちは、どのような気持ちだったのか考えると、現在の平穏な日々へのありがたさを感じました。
 これまでの平和学習では、原爆をはじめ、日本の「被害」を中心に学んできましたが、今回、初めて他国への「加害」の側面を学んだ事で、より多面的に戦争を知ることが出来たと思います。戦争は、被害だけでなく加害もはらんでいる、という山内さんの教えを胸に刻み、これからも充実した平和学習に努めていきたいです。(高3・佐田よつ葉)

 大久野島で戦争の歴史を学ぶ中、大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑(いれいひ)を訪れたことが一番印象に残っています。今はたくさんの観光客がいて人を楽しませている大久野島で、戦争に使われた毒ガスが製造され、多くの人の命が奪われたことを実感したからです。この島で毒ガス製造に関わった私たちと同年代の人もたくさん亡くなっています。とても多くの人を殺してしまう戦争の恐ろしさを感じました。
 「今の平和な大久野島を守るために島の戦争の歴史を訴えている」という山内さんの言葉がとても心に残っています。山内さんは「戦争をすることは被害があるだけでなく加害をすることだ」と話します。この言葉を聞いて、私は原爆について学ぶ中で被害に目を向けることが多く、加害についてあまり関心を寄せていなかったことに気づかされました。
 被害者だけでなく加害者にならないためにも「戦争をしてはいけない」と声をあげていくことが大切なのだと思いました。(高2中島優野)

 毒ガスがどのように作られ、保管されていたのかを想像しにくい中で、今回フィールドワークをしたことで得たものは大きいと思っています。
 毒ガスの貯蔵庫跡では、高さが11メートルもあるタンクに猛毒(もうどく)のガスが保管されていた事を知りました。発電所跡は、毒ガス製造のための発電が行われていた場所でした。
 字面だけで知るのではなく、実際に見て知ったことで、生々しく自分の中に刻まれるように感じました。今まではほとんど知らなかった毒ガスの歴史が、映像をともなって心に浮かぶようになりました。
 それは、戦争遺跡が多く残っていたからだと思います。これらは人々が声をあげて守ってきたからこそ今に残っています。形あるものとして歴史を残していくことの大切さ、それらが語りかけてくることの多さを改めて感じました。
 「過去の歴史から学び、それを未来に活かしていくことが大切」と山内さんはおっしゃいました。まずは歴史を正しく知り、そこから行動していかなくてはいけない。「知り、考え、行動する」ことを繰り返し続けていくことで、私たちにも平和を支えることができると感じました。そして今回、そのはじめのステップに進むことができたと思います。(高1田口詩乃)

 大久野島の火薬庫は、3つの戦争で使われたとても貴重な建物です。しかし現在、火薬庫跡は数年前の西日本豪雨(ごうう)の土砂崩れによってほとんどが埋もれていました。建物の説明板も見えなくなっており、以前の姿を知らない人であれば、気づかないかもしれないと思いました。この建物について後世に伝えるため、説明板も立てて残すということでしたが、復旧までにはまだ時間がかかるそうです。現在、様々な戦争遺跡の保存について問題が挙がっていますが、この火薬庫のように残そうとしてもやむを得ない理由で保存の道が絶たれてしまうことがあるとわかりました。
 取材中、山内さんは「歴史から学ばなければならない」ということを何度も話されました。私は広島に住んでおり、学校でも原爆のことを中心に学ぶことが多いです。しかし今回、戦争は原爆だけではないこと、そして被害だけでなく加害もあったことを、「毒ガスの島」で学びました。
 これからも学び続ける姿勢としっかり自分の頭で考えることを大切にがんばりたいと思いました。(中3・相馬吏子)

 特に印象に残ったのは、最後に見学した発電場跡です。人工の土手に隠れ、黒っぽい鉄骨がむき出しになっている様に、少し恐怖を感じました。ここで、毒ガスを生産するための電気がつくられたのだ、と思うと大久野島の悲劇の原点のように思えました。
 山内さんは、そこで私たちに、「過去のあやまちを忘れず、未来に活かすことが大切」と力強く訴えました。知ることも大切だけれども、それ以上に「知った後、どんな形でもいいので声を上げること」が歴史を学ぶことの意義だと分かりました。
 私は、大久野島にある毒ガス貯蔵跡や資料館を見学して、核兵器と同じくらい、毒ガスは危険で無差別に人を殺す凶悪(きょうあく)な兵器ということを実感しました。これからは、「化学兵器」という視点からも平和について考え、発信していきたいです。(中3谷村咲蕾)

 私が最も心に残っている話は、戦時中に大久野島に動員された中学生や女学生の話です。連れてこられた人の多くは13歳から15歳で私と同じくらいの年だったということにとても驚きました。
 何をつくるのか知らされていなかったという話や、大久野島の港につく前からひどいにおいがしてくしゃみが止まらなかったという話を聞いて、もし自分が同じ立場だったらと考えるととても恐ろしくなりました。強制的・半強制的に島で毒ガスを作らせるという行為は個人の気持ちを無視していて、戦時中は自分の意思が尊重されなかったことを知りました。
 毒ガス製造などに関わり、被害を受けた人の多くは慢性気管支炎(まんせいきかんしえん)になっているそうです。この病気は死ぬまで治らないということも聞き、毒ガスも原爆と同じように、人間に傷を残し続けるものだと分かりました。原爆と同じように、毒ガスについても多くの人に知ってもらいたいと思いました。
 山内さんは何度も「戦争は加害もあるが被害もある」と話されました。核兵器も毒ガスも自分自身を守るためにも絶対に使ってはいけないと思いました。(中3・中野愛実)

 私は大久野島について詳しく学ぶのは初めてでしたが、山内さんのお話を聞き、想像よりも悲惨な過去を知りました。山内さんのお話の中で印象に残ったのは、広島といえばほとんどの人が原子爆弾を想像するけれど、大久野島では毒ガスが製造され、同じようにむごい過去があったことをもっと知ってもらうべきだ、ということです。お話を聞かなければ、私も毒ガスについて詳しく知らないままでした。
 毒ガスは危険で有害です。実際、戦時中に大久野島で製造に関わった人の9割以上が毒ガスによって健康被害を受けています。山内さんはそこで働いた人たちは、毒ガス兵器をつくった加害者だけど、何も知らされずに国の命令で働かされて、亡くなったり病気で苦しんだりした被害者でもある、とおっしゃっていました。戦争は被害も加害もうみ、いいことなどありません。より多くの人に大久野島で起こった事実を知ってもらうべきです。そのために私たちは、たくさん発信していくべきだと感じました。(中2・川本芽花)

 私は今回初めて大久野島へ行き、毒ガスについても初めて勉強しました。一番印象に残った場所は長浦毒ガス貯蔵庫跡です。
 本土から見えないようにするために山で隠れる場所に貯蔵庫を建てていて、毒ガスを隠れてつくっていたことがはっきり分かる遺跡でした。また、毒ガスのタンクを入れていた部屋が残っていて、部屋の大きさから大量に毒ガスを生産していたことがよくわかりました。
 一番心に残ったことは、毒ガスを実際に中国で使い、その時だけでなくいまも被害を生んでいるということです。 国際条約で毒ガスの使用は禁止されていたにも関わらず使用し、証拠隠滅(しょうこいんめつ)のために地中に埋め、それによって今も苦しんでいる人がいることに驚き、許せない気持ちになりました。
 このフィールドワークを通して、第2次世界大戦の日本といえば空襲や原爆投下をされた「被害者」になりがちですが、実際は日本も同じような行為を外国にした「加害者」でもあることを決して忘れてはいけないと思いました。 (中2山下裕子)

 僕はこれまで、原爆はいけない。核兵器はいけない。ただそう思っていたのですが、今回、大久野島に行って、毒ガスという兵器がどれだけの人を苦しめたかを知ることができ、核兵器だけでなく毒ガスも含めて、兵器で人を殺すこと自体がいけないのだということが分かりました。
 これまで僕は平和学習をしてきて、日本が一方的に攻撃されてきたような感覚を持っていたのですが、大久野島では原爆と同じように無差別に人を殺す毒ガスが作られ、そして実戦で使用されたと分かり、加害もしていたという意識を持つことができました。しかも製造や使用だけでなく、遺棄(いき)した毒ガス兵器で戦争が終わった後にも被害を受けている人がいるのです。
 毒ガス工場で働いていた人は毒ガスを製造するとは聞かされず、ほとんどの人が半強制的に連れて来られ、中には学徒もいたそうです。工場で働いたほとんどの人が毒ガス障害を受けたそうです。国の命令で製造した毒ガスで受けた障害なのに国として被害者を救済する法律はないそうです。この理不尽(りふじん)さが心に残りました。
 大久野島は複数の戦争に利用された島だということも分かり、それにも驚きました。大久野島内あちこちに戦争遺跡がある中、印象に残った場所が北部砲台跡です。明治時代には大砲が置かれ、昭和は毒ガス貯蔵庫に使われたという歴史があります。
 戦争の爪痕を残す場所としての大久野島は、原爆ドームよりも知名度が圧倒的に低いです。大久野島はウサギ島としてではなく、ヒロシマと戦争について理解を深められる島だということを、もっと多くの人に知ってほしいと思いました。(中1・川鍋岳)

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