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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 満蒙開拓 知っていますか

 皆(みな)さんは「満蒙開拓(まんもうかいたく)」を知っていますか。日本がかつて事実上の植民地とした旧満州(中国東北部)には、敗戦までの間に国策(こくさく)で多くの日本人が「開拓団」や「青少年義勇軍(せいしょうねんぎゆうぐん)」として移住しました。広島県からも1万人以上が渡(わた)ったとされ、その中には私たちと同じ10代の子どもも多くいました。中国新聞ジュニアライターは、専門家や旧満州で敗戦を迎(むか)えた人たちに話を聞き、「満蒙開拓」の実情を学びました。

研究者の河本さんに聞く

背景に貧困や国境防衛 国策で移住

 「満蒙開拓」は1932年、旧満州に「満州国」が建国されてから始まりました。この問題に詳(くわ)しい河本尚枝・広島大大学院准教授に背景(はいけい)を教わりました。

 当時の日本は世界恐慌(せかいきょうこう)のあおりを受けて経済状況(けいざいじょうきょう)が悪く、特に農村の人たちは深刻(しんこく)な貧困問題(ひんこんもんだい)を抱(かか)えていたそうです。また、満州では食糧生産の労働力と旧ソ連国境の防衛(ぼうえい)が求められていました。そこで政府は移民計画を決定。「満州に行けば広大な土地が手に入る」と国策(こくさく)として移民を勧(すす)めました。自治体別に人数を割(わ)り当て、確保できれば補助金(ほじょきん)を出すなどしたため積極的に住民を勧誘(かんゆう)する首長もいたそうです。

 満蒙開拓移民には大きく二つあり、地域単位で移住したのが「開拓団」で、全国から約800の開拓団が海を渡りました。それに対し、私たちと同じ10代で構成されたのが「満蒙開拓青少年義勇軍」。志願者の多くは親の土地を継(つ)げない農家の次男や三男でした。

 66年刊行の「満洲開拓史」によると、広島県から開拓団で渡った人は6345人で、義勇軍は4827人。計1万1172人という数は、全国で8番目の多さでした。

 45年の敗戦までに、全国から約27万人が移住したとされますが、日本の戦況は悪化し、8月9日にはソ連軍が侵攻(しんこう)。3割に当たる約8万人が戦闘(せんとう)や「集団自決」、シベリア抑留(よくりゅう)などに巻(ま)き込(こ)まれ、亡くなりました。逃(に)げる途中(とちゅう)に病死した人や混乱の中で日本に帰れず「残留孤児(ざんりゅうこじ)」となった子どもも多くいました。

 河本さんは「この人たちもまた戦争の犠牲者(ぎせいしゃ)。この事実に目を向けなければ」と話しました。戦争の被害は、原爆や空襲(くうしゅう)だけでないことを学びました。

14歳で「義勇軍」志願 末広さん

敗戦・抑留… 「現地の人傷つけた歴史も」

 印刷会社会長の末広一郎さん(98)=広島市安芸区=は14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に入りました。「皆さんと同じくらいの年齢(ねんれい)の時。想像しながら聞いて」と話しました。

 広島県世羅町に生まれ、きょうだいは末広さんを含め12人。「広い土地をもらって家族を助けよう」と自ら義勇軍に志願(しがん)しました。

 3カ月ほど茨城県の訓練所で過ごした後、旧満州に渡りました。家族と離(はな)れる寂(さび)しさよりも「親孝行(おやこうこう)できる」という思いが強かったと言います。

 満州の嫩江(のんこう)訓練所では、中国人から奪(うば)った広大な土地にひたすら建物を造り、わずかな食べ物を分け合う日々でした。

 肺の病気で療養中(りょうようちゅう)に敗戦を迎(むか)えた後、旧ソ連軍に連行されシベリア抑留も体験しました。極寒の地で森林伐採(しんりんばっさい)や鉄道敷設の重労働をさせられたそうです。4年後に帰国してからも苦労ばかりでした。「シベリア帰り」と差別され、肺も悪かったのでなかなか職に就(つ)けなかったそうです。

 2017年から1人で「満蒙開拓平和通信」を発行しています。手記や勉強会の報告など100ページに及(およ)ぶ冊子です。「開拓の名の下、現地の人たちを傷(きず)つけた歴史も伝えなくては」と実態を克明(こくめい)につづっています。

 末広さんの3歳違いの弟の昭三さんは兄を追うように義勇軍に入り、現地で亡(な)くなりました。「弟の供養(くよう)になれば」と、義勇軍について県内外で講演もしています。「悲惨(ひさん)な歴史を繰(く)り返してはいけない」という末広さんの言葉が重く心に響(ひび)きました。

中国残留孤児 川添さん

逃げる途中 両親と妹を亡くして

 広島市南区の川添瑞江さん(85)は「中国残留孤児(ちゅうごくざんりゅうこじ)」の一人です。佐賀県から旧満州に渡(わた)った両親の下、吉林省(きつりんしょう)で生まれ、黒竜江省(こくりゅうこうしょう)で暮らしました。

 1945年8月、飛行機から爆弾が落とされるのを自宅で見ました。旧ソ連軍が侵攻(しんこう)してきたのです。川添さんは両親と姉、妹と逃(に)げまどいました。幼い妹は、母親に背負われたまま亡くなりました。

 母親のおなかには赤ちゃんもいて、逃げる途中(とちゅう)、牡丹江(ぼたんこう)という所で出産しました。しかし母親は産後に熱が下がらず、数日後に亡くなりました。「お墓(はか)を作ることもできず、穴を掘(ほ)って埋(う)めた光景が目に焼(や)き付いている」と涙(なみだ)ながらに語ります。

 生きて逃げるのが精いっぱいで、赤ちゃんは地元の中国人に預(あず)けられました。その後の消息は分かりません。父親は、川添さんと姉をそれぞれ親切な中国人に託(たく)し、4日後に病死しました。

 川添さんは中国人の養父に育てられ、19歳で結婚。子育てしながら「祖国に帰りたい」と願ってきました。72年の日中国交正常化後、92年に帰国。2000年から次女が働いていた広島で暮らしています。幼い頃、満足にできなかった勉強をしたいと思い、夜間中学や通信制高校に通って猛勉強(もうべんきょう)したそうです。

 「広島の人は原爆には詳(くわ)しいけれど、中国残留孤児について知らない人が多い」と川添さん。長い中国暮らしで日本語を話すのが難しい中で、私たちに「伝えたい」という思いを強く感じました。しっかり受け止め、共有したいです。

私たちが担当しました

 高2田口詩乃、高1谷村咲蕾、藤原花凛、森美涼、吉田真結、中3尾関夏彩、川本芽花、山下裕子、山代夏葵、中2西谷真衣、新田晄、松藤凜、矢沢輝一、中1石井瑛美が担当しました。

(2023年10月23日朝刊掲載)

【取材を終えて】

~河本尚枝さんと川添瑞江さんのお話を聞いて~

 川添さんは、満州での家族との死別の瞬間やつらい逃亡の道中を涙ながらに語ってくれました。何も知らないままに加害者にされ、それゆえに家族と引き離され自分のアイデンティティーさえもうやむやにされる。その理不尽さは、原爆で罪のない命が奪われたことと何ら変わりがないと思います。しかし、私たちは川添さんのような人々のことを知らず、知ろうともしていません。私たちは分かりやすく大きな声にしか耳を傾けられていないのではないのでしょうか。広島に生まれた私たちは、かえって視界が狭くなっているように思います。事実として残留孤児はいて、多くの苦労を抱えながら今も日本や中国で生活しているのです。戦争の悲劇は原爆や焼夷弾だけではありません。理不尽がまかり通り、人が人を恨み、少しのことも許せなくなります。悲しみや苦しみは人の数だけ生まれます。私たちは、今一度戦争が何をもたらすのかをさまざまな角度で知る必要があるのではないでしょうか。(高2田口詩乃)

 私は生まれも育ちも広島で、広島に投下された原子爆弾の被害については知識を持っています。それだけで戦争の悲惨さを全て理解していると思っていました。しかし、お話を聞いてそれは間違っている、被爆と同じくらいの苦しみを味わった人がまだまだいるのだと思い知らされました。戦争というものは本当にたくさん人の犠牲の上に成り立っているのだと実感しました。実体験である川添さんのお話は、河本先生のお話の何倍もの恐ろしさがありました。戦後の満州を生き抜くことがどれだけ大変だったのか、身を持って感じました。また、日本語を話すのが難しい中、私たちに伝えようと一生懸命に語る姿を見て、一言一句を聞き漏らしてはいけない、全てを後世に伝えることが私の使命だと感じました。(高1森美涼)

 今回、第二次世界大戦による被害者は世界中にさまざまな形でいるということを実感しました。私は今まで原爆についてたくさん学んできましたが、広島だけでなく、お話を聞いた川添さんは中国で空襲に遭って怖い思いをしたり、戦争で家族と離れ離れになったりしています。河本先生は「家族と生き別れ、残留孤児となった方はたくさんいる」と話していましたが、小学生くらいで家族と離れて生きるしかなくなるというのは、私が同じ立場だったら絶対に耐えられません。そんな辛い事実を、私は取材をするまで詳しく知りませんでした。川添さんが取材を受けた理由の一つに「広島の若者が原爆のことしか知識がなく、特に中国についてはよく知らないだろうと思ったから」と話しました。戦争が生んだ被害は多大で、1部を知っただけでは、その戦争の被害について知っているとは到底言いきれないと分かりました。今後は活動を通してより多くの知識を得ていきたいです。 (中3川本芽花)

 今回、川本先生と川添さんのお話を聞いて、満州移民は国策で、行くか行かないかの判断は個人で決めることができない人が多かったことや、満州に行った後、日本に帰ってこられなかった人がいることを始めて知り、驚きました。川添さんの、「広島は、原爆についての平和学習しかないから、中国残留孤児について、もっと知ってほしい」という言葉がとても印象に残っています。広島から満州へ行き、戦争を経験し、今も苦しんでいる人がいることを、自分自身も知らなかったし、広まっていないことだと思うから、満州開拓団と青年義勇隊についてもっと広めていきたいです。(中3尾関夏彩)

 学校では深くは習わない満州のことを勉強できて良かったです。満蒙開拓団や青少年義勇軍など初めて聞いた言葉ばっかりでした。私は小学生の時に川添さんからお話を聞いたことがあったのですが、何回聞いても心に響くお話でした。私が川添さんのお話の中で印象に残った言葉は「戦争をしたらどのようになるのか、どんな悲しみが起きるのか考えて」という言葉です。今もまだ各地で戦争が続いています。最近また大きな戦争が始まってしまいました。だからこそ、この言葉がすごく心に響いたし印象に残りました。今回お話を聞いた満州のことは学校で取り上げられることが少ないです。だからもっと満州のことを多くの人に知って欲しいと思いました。(中2松藤凜)

 お話を聞く前は中国残留孤児についての知識があまりなく、「世界の果ての子どもたち」という本で知っている程度でした。しかし、河本先生のお話を聞いて、中国残留孤児についての理解が深まりました。なぜ日本人が満州へ行ったのか、広島県からどのくらいの人が満州へ行ったのかなどを知りました。12年間で広島県から満州へ行った人数が、40年間で日本からブラジルに行った人数とほとんど同じだったことに驚きました。また、1家族に割り当てられた農地の面積はとても大きく、ここで農業をするのはどんなに大変だったのだろうと思いました。さらに、中国残留孤児の川添さんの話を聞いて、中国での生活や、親や兄弟との別れなど、どんなにつらい思いをしたのかを知りました。また、川添さんが日本に帰ることができ、勉強することができるようになって、たいへん幸せを感じておられることが伝わりました。取材を終えて、中国残留孤児についてもっと知りたいと思いました。川添さんに言われたように、私は、日本の未来のためにもこれから頑張って勉強したいと思います。(中1石井瑛美)

~末広一郎さんのお話を聞いて~

 以前、末広さんと同じように終戦後にシベリアに抑留された、山本幡男さんという方の生涯を描いた映画を見たことがありました。シベリアで、森林伐採などの過酷な肉体労働を強いられたこと、日本にいる家族に手紙を送っていたこと、ロシア語が話せる人は通訳として活動していたことなど、末広さんのお話と映画の内容は重なる部分が多くありました。映画で当時の様子の再現をみていたため、末広さんの壮絶な体験がより鮮明に伝わってきました。今まで伺うことの多かった広島や長崎で被爆した方のお話と末広さんのお話を比較し、同じ時代を近い年齢で生きていても人それぞれが全く異なる経験をしていて、しかしやはり当時の子供達は誰もが死と隣り合わせの状況で必死に生活していたのだと感じました。末広さんが仰っていた通り、罪のない子ども達をそのような危険に晒す戦争は、二度と繰り返してはならないと改めて感じました。(高1吉田真結)

 私は今回の取材で初めて満蒙開拓団について学びました。なぜ開拓に行ったのか、開拓に行った人たちがどんな状況に置かれていたのかなど、学校の歴史の授業では習わないことを学ぶことができ、とても良い経験となりました。川添さんの話では、中学校、高校に通えていない分勉強したいと日本に帰国したあと、夜間中学校、通信高校に入学した話が印象に残りました。高校では勉強が難しくなる分大変でしたが、先生の励ましで頑張ることができ、無事に卒業できたそうです。学校生活を送れたことがとても幸せで心が若返ったと言っていました。この話を聞いて、今私が当たり前のように学校へ毎日通えていることがとても幸せなことであると実感しました。広島の原爆の話だけでなく、中国残留孤児についても多くの人に知ってほしいです。また、学生には学校で過ごす時間を大切にしてほしいです。(中3山下裕子)

 満州移民の人たちは、現地では日本ではあり得ないほどの広大な土地を持つことができて移住してよかったこともありましたが、ソ連による満州侵攻後、現地の人たちの土地を奪って開拓を進めていたなど、さまざまな問題が彼らの周りにあったことを知ったそうです。末広さんが入っていた「満蒙開拓青少年義勇軍」のことは学校ではあまり教えられません。被爆地ヒロシマに生きる人間として原子爆弾について深く学ぶことも重要ですが、彼らのこともより多くの人に知ってほしいと思います。戦争が起こると、戦争など全く望んでいない一般の市民が最も影響を受けます。地球に住むすべての人にそのことを理解して、みんなで行動を起こしていきたいと思います。(中3山代夏葵)

 私は、今まで「満蒙開拓義勇軍」のことは知りませんでした。末広さんのお話を聴く前に、河本先生の講義動画や資料を見ましたが、私にとっては少し難しい内容でした。今回、末広さんから直接お話を聴き、旧日本軍の侵した過ちや満蒙開拓の悲惨な体験を知ることができました。そして、戦争のむごさを改めて感じました。「同じ日本人としてあり得ない行動」を満州の人たちにしてしまったことなどを後世に伝えるために、末広さんは現在も一生懸命努力していることに感動しました。今回のお話の中で、「過去を反省、謝罪できぬ者は、同じ道を歩む」という言葉が一番心に残りました。現在も、ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が行われ、毎日犠牲者が出ています。末広さんのような戦争体験者の声を世界に届け、後世に残すことは、マスメディアの重要な役割だと思いまいした。その事が、世界に平和をもたらすことになると思います。(中2新田洸)

 私が末広さんのお話を聞いて、印象に残ったことが二つあります。1つ目は、末広さんが満州開拓団として満州に行くと、そこは一面野原で、簡素な家を建てることから始まり、畑で食糧を耕すが、食糧がとても不足し、犬や兎を殺して食べたり、中国人の家から、食糧を盗んだりしていたことです。末広さんの満州での生活体験を聞いて、私も同じ14歳ですが、そんな過酷で苦しい生活に耐えられないと思い、生き抜く必死さを感じました。2つ目は、末広さんがロシア軍の兵士に連れていかれ、シベリアに抑留されたときに、厳しい労働環境の中で働かされて、朝起きたら、隣の人が亡くなっていたことです。私は、簡単に命が失われたことに恐怖を感じました。私は歴史の授業で「満州国建国」、「アジアに勢力を広げる」としか習わなかったので、満州での苦しい環境や生活やシベリア抑留について知りませんでした。末広さんのお話を友達など周りの人に話して発信し、戦争はしてはいけないという共通認識を持てるようになったらいいなと思いました。(中2矢沢輝一)

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