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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 原爆と平和大通り <上>

 広島市中区の平和大通り一帯などで5月3~5日、2024ひろしまフラワーフェスティバル(FF)が開かれます。平和大通りは、幅の広さから別名「100メートル道路」。戦時中、空襲(くうしゅう)による延焼(えんしょう)を防ぐため建物を壊(こわ)し、空き地や道路をつくった「建物疎開(たてものそかい)」の名残(なごり)でもあります。この作業に出ていた多くの子どもたちが、原爆の犠牲(ぎせい)となりました。中国新聞ジュニアライターは、にぎわう通りに立つ慰霊碑(いれいひ)の歴史を調べたり、動員学徒だった被爆者に話を聞いたりしました。

建物疎開作業

野田さんに聞く

多くの子が犠牲に

 第2次世界大戦も末期になると、子どもたちは大人の労働力不足を補(おぎな)うために、建物疎開作業や軍需工場(ぐんじゅこうじょう)で働いていました。

 原爆資料館(広島市中区)によると、1945年8月6日も多くの子どもたちが作業に出ていました。建物疎開は、市内42校の12~14歳の生徒ら8千人以上が平和大通りを含む市中心部の6カ所に動員され、約6300人が犠牲になったといわれています。

 当時、県立広島商業学校(現広島商業高)2年だった野田博さん(92)=西区=に話を聞きました。学校に行っても勉強はできず、畑仕事や郊外での稲刈(か)りに。建物疎開作業では、爆心地から1キロほどの昭和町(現中区)周辺に連日、通っていました。現在の比治山橋西詰め辺りです。

 「『引けー、よいしょ』というかけ声で大人たちが家屋をロープで引き倒(たお)した後、子どもたちが瓦(かわら)や木板を片付けました」

 あの日も作業へ出発するため、同級生たちと爆心地から約1・8キロの校庭に並(なら)んでいたときに被爆。顔や腕(うで)に大やけどを負いました。家族の懸命(けんめい)な看病(かんびょう)で命をつなぎました。しかし、他の学校の子どもたちは、既(すで)に爆心地からより近い場所で作業を始めていました。そのため大きな被害が出たのでした。野田さんの同級生も犠牲になりました。

 平和大通り一帯には、動員学徒たちを弔(とむら)う慰霊碑がいくつも建てられました。野田さんは「子どもが犠牲になるような悲惨な経験を繰(く)り返してはいけない」と力を込(こ)めました。

市女の慰霊碑

占領期に建てた「E=MC²」

 原爆資料館(中区)近くの平和大橋西詰(づ)めに、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の慰霊碑が立っています。建物疎開作業をしていた1、2年生541人を含む676人を追悼(ついとう)しています。

 中央に、もんぺ姿(すがた)の少女が「E=MC²」の文字を胸(むね)に抱(いだ)き、左右に2人の少女が寄(よ)り添(そ)っています。

 この碑ができた1948年、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下(せんりょうか)にありました。そのため、米軍が投下した原爆のことを直接表現することを避け、原爆製造にも応用されたアインシュタインの相対性理論の公式(こうしき)を刻んだそうです。

 市内の学校では最も多い犠牲者数(ぎせいしゃすう)でした。原爆への怒(いか)りや遺族(いぞく)の悲しみが伝わってきます。

県女の「追憶之碑」

301人の命悼む

 爆心地から約600メートルにある広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)正門跡には「追憶之碑(ついおくのひ)」が立っています。1955年に遺族や元職員たちが建立しました。

 県女は、建物疎開作業に出ていた1年生223人を含(ふく)め、301人の生徒・教職員が亡くなりました。碑のそばには犠牲者名を刻んだ銘板(めいばん)があり、一人一人の命の証(あか)しと、遺族や同窓生の悲しみを伝えています。折り鶴掛(か)けは、ハート形の校章をモチーフにしているそうです。

 碑には今も多くの人が訪(おとず)れ、毎年8月6日には追悼式も開かれています。私たちと同じ世代の少女が未来を奪(うば)われた事実を多くの人に知ってほしいです。

私たちが担当しました

 高3小林芽衣、田口詩乃、高2相馬吏子、谷村咲蕾、殿重万桜、中野愛実、藤原花凛、森美涼、吉田真結、高1尾関夏彩、川本芽花、戸田光海、山下裕子、中3川鍋岳、西谷真衣、松藤凜、矢沢輝一、行友悠葵、中2山下綾子、卒業生の大学1年中島優野が担当しました。

FFステージ見に来てね

ジュニアライターが取材発表

 2024ひろしまフラワーフェスティバル(FF)初日の5月3日、中国新聞ジュニアライターが「平和大通り」をテーマにステージ発表をします。午後3時20~50分ごろ、会場は田中町ブロックの「バラステージ」。

 このページに載(の)せている記事を基(もと)に、取材したことをクイズも交(まじ)えて発表します。広島に住むウクライナからの避難者(ひなんしゃ)と一緒に、「アオギリのうた」も歌います。

 平和大通りでの原爆被害の歴史や、戦後の復興(ふっこう)、緑地帯にある慰霊碑について学びませんか。クイズに答えた観客には、中国新聞のマスコットキャラクター「ちゅーピー」のグッズをプレゼント。ぜひ来てください!

(2024年4月16日朝刊掲載)

【取材を終えて】

~野田博さんの話を聞いて~

 野田さんは最後に「家族と喧嘩するのも、勉強がめんどくさいと思えるのも、平和なうちなんだよ」と話し、その言葉が印象に残りました。原爆孤児たちが過酷な生活を送る中で、両親が生き残り、母親につきっきりで看病してもらえた野田さんが「平和とは何か」を深く考えたからこそ出た言葉で、重みを感じました。今ある平和をかみしめて、これからもその平和が続くように、学び発信し続けていきたいと思います。(高2谷村咲蕾)

 今回の取材で特に感じたことは、当たり前の日常が幸せだということです。野田さんは被爆後、大けがを負いながらも自宅にたどり着き、母親が出迎えました。その時のことを「今までの人生で一番嬉しかった。今でも思い出すと胸が熱くなる」と涙ながらに話してくれました。野田さんは「幸せとは家族と普段通り話したり、喧嘩したりすること。しかしそれは幸せの中では気付くことはできない。幸せとは何かきちんと覚えておいてほしい」と言いました。私は今まで幸せとは何かを考えたことがなくて、これらの話に胸が熱くなりました。家に帰れば家族が出迎えてくれて一緒に暮らすことは、私にとって当たり前の生活でした。しかしそれらがずっと続くという保証はなく、戦争はその幸せを一瞬で奪ってしまいます。だからこそ、この日常の幸せがなくならないように、皆が平和に暮らせる社会がなによりも大切だと思いました。これからも当たり前の日常に感謝し、世界中が平和な社会になるよう努力していきたいです。(中3西谷真衣)

 今回の取材で印象に残ったことは、 野田さんが被爆後、大けがを負いながらも家に帰り、出迎えたお母さんに抱きついたというお話です。このことを聞いて、私は両親を大事にしようと思えたし、家族と過ごす時間は当たり前ではないと感じました。野田さんは「幸せというのは目の前にある」と教えてくれました。さまざまな人たちが「幸せとは何か」を語っていますが、野田さんの言う「幸せ」が、私にとって一番心に響きました。(中3松藤凜)

 野田さんは戦時中や被爆後のことをよく覚えていました。当時14歳という私と同じ年齢で被爆されたのもあり、自分に重ね合わせながら話を聞き、当時の様子を鮮明に思い浮かべることができました。原爆から生き延びて、再会した母親に抱きついた時、「お母さんを一番感じた」という野田さんの言葉が印象的でした。帰る場所があり、迎えてくれる人がいる安心感はかけがえのないものだと思います。野田さんは、親子、兄弟、友達も仲良くして、大事にしないといけないと話しました。いざという時に頼れる人がいるというのは心強いと思います。頼れる人がどれほど大切か、野田さんの話の中で理解することができました。(中3川鍋岳)

 野田さんは被爆後に「お尻に火がつきねずみ色になった」、「顔が腫れ上がり目が開かなくなった」など、被爆の実態をとてもリアルに話してくださり、分かりやすかったです。被爆による苦しみや痛みがひしひしと伝わり、原爆のむごさを再認識しました。(中3行友悠葵)

 野田さんは、原爆が投下された時の様子や、熱線による大やけどを負ってケロイドに苦しんでいたこと、皮が焼け落ち真っ赤になり腰紐しか残っていないお兄さんに会った衝撃、戦争を体験したからこそ感じる家族と過ごす時間の大切さなど、具体的に話してくれました。野田さんが体験してきたことを想像するだけで、胸が締め付けられる思いがすると同時に原爆の恐ろしさを痛感します。野田さんは涙を流すこともありましたが、それでも私たちにしっかりと体験を話してくださいました。このような核兵器が2度と使われることがないよう、私たち若い世代が後世に被爆体験を伝えていくことの大切さを知りました。そして、どうすればより多くの人に発信することができるのか、これからも考えていきたいです。(ジュニアライター卒業生・大学1年中島優野)

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