[ジュニアライターがゆく] ノーベル平和賞授賞式 オスロ訪れた人たちを取材
25年2月11日
昨年12月10日、被爆者の全国団体「日本被団協(にほんひだんきょう)」がノーベル平和賞を受賞しました。ノルウェーのオスロであった授賞式では、代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(92)が演説し、「人類が核兵器で自滅(じめつ)することのないように」世界が核兵器をなくす行動を進めるよう訴(うった)えました。授賞式に合わせて、被爆者と日本の市民も大勢、現地を訪れました。オスロで何を感じ、どんな決意を新たにしたのでしょうか。中国新聞ジュニアライターが取材しました。
核禁条約 後ろ向きな政府に落胆
授賞式では、被爆者3人が登壇(とうだん)しました。その一人、日本被団協の代表委員で広島県被団協の箕牧(みまき)智之理事長(82)は、賞状を受け取りました。「ずっしりと重かった」と言います。
森滝市郎さん、坪井直(すなお)さん、肥田舜太郎医師、長崎の被爆者谷口稜曄(すみてる)さん…。壇上(だんじょう)で、被団協の活動を支えた「先人」を思い出しました。「一から組織や運動をつくるには相当な苦労があったろう。長い歴史の上に今がある」。当日、胸(むね)ポケットに先人たちの写真を入れていました。
授賞式の夜、受賞者をたたえるたいまつ行進がありました。「国を挙げて受賞を祝ってくれている」と感じました。しかし、日本に帰った後は、厳(きび)しい現実も痛感しています。
今年初め、東京の首相官邸(かんてい)で石破茂首相と面会しました。首相は、核兵器禁止条約の参加に後ろ向きです。自国の安全を守るには米国の核兵器が必要、とする「核の傘」への依存が日本の政策(せいさく)だからです。
3月にある第3回締約(ていやく)国会議にオブザーバー参加するかどうかは「『考える』とも言わんかった」。落胆(らくたん)と憤(いきどお)りをにじませながら、箕牧さんは若(わか)い世代への思いも話してくれました。「戦争へ進み始めるとブレーキが利かなくなる。絶対に反対してください」
【核兵器禁止条約】
核兵器を造る、持つ、他の国にあげる、もらう、などを全面的に禁止する国際条約です。今、73カ国・地域が加盟しています。日本は被爆国ですが条約に加盟(かめい)しようとしません。
加盟国は3月3日から国連本部で開かれる3回目の「締約国(ていやくこく)会議」に集います。加盟国以外でも、希望すれば「オブザーバー」として参加し、意見を述べることができます。日本被団協などは「せめてオブザーバー参加を」と強く訴えていますが、日本政府は参加しない方針です。
「国の償い」と「廃絶」 活動の両輪
演説の中で田中熙巳(てるみ)代表委員が訴(うった)えたのは「核兵器廃絶」だけではありません。最初に、日本被団協が掲(かか)げる「二つの基本要求」について述べました。「原爆で亡くなった死者に対する償(つぐな)いは、日本政府は全くしていない事実をお知りいただきたい」という言葉も。どんな意味なのでしょうか。浜住(はますみ)治郎事務局次長(79)=東京都稲城(いなぎ)市=に聞きました。
要求の一つ目は、国の起こした戦争で被害を受けても受忍(じゅにん)(がまん)させられるのは絶対に許せない、国によって補償(ほしょう)されなければならない、という訴えです。二つ目が「核兵器廃絶」です。「これらは再び戦争をさせず、被爆者をつくらないための『車の両輪』です」
被爆者には手当や医療費などの援助(えんじょ)があり、1994年には被爆者援護(えんご)法ができました。しかし国が戦争をした責任を取って「償う」のではなく、「被爆者」を「援護」する制度です。そのため、即死(そくし)したり早くに亡くなったりした市民、被爆していない孤児(こじ)や遺族(いぞく)の多くには何もないのです。「原爆被害者」は「被爆者」だけではありません。
私たちは56年に日本被団協が結成された時の宣言文「世界への挨拶(あいさつ)」も読みました。浜住さんは「被爆者は最初から体験を証言できたのではなかった。戦後11年の悩(なや)み、怒(いか)り、苦しみの中で人々がつながっていったことを知ってほしい」と強調します。
浜住さんは、母親が妊娠(にんしん)3カ月の時に広島で胎内(たいない)被爆しました。父親は爆心地から約500メートルで被爆死。ベルトのバックルなどの遺品が残っただけでした。矢賀(現東区)の自宅には親類たち約30人が避難(ひなん)してきました。3歳のいとこたちが突然(とつぜん)体調を崩して亡くなったそうです。
約20年前に稲城市で被爆者の会を結成し、2014年に胎内被爆者の全国連絡会にも加わって体験手記を寄せるなどの活動をしています。19年には国連本部で証言し、常に健康に不安を抱えている「生まれる前から被爆者だった」人間の苦しみを世界に伝えました。
浜住さんによると、田中さんの演説でのアドリブは「現在の戦争で、被害は補償されているか」という問いでもありました。今、世界の国々が市民の犠牲(ぎせい)に責任を取ることなく戦争をしています。
韓国にも被爆者 知ってほしい
日本被団協の代表団として授賞式に出席した人たちの中に、広島で被爆した韓国(かんこく)人の鄭源述(チョンウォンスル)さん(81)もいました。韓国原爆被害者協会の会長です。「韓国にも被爆者がいることを知ってほしい」と伝統衣装(いしょう)の「韓服」を着て、最前列に座(すわ)りました。
朝鮮(ちょうせん)半島では、日本の植民地にされた1910年以降(いこう)、貧(まず)しい生活や徴用(ちょうよう)、徴兵などを理由に多くの人が日本に渡(わた)り、被爆しました。1歳だった鄭さんに当時の記憶(きおく)はありません。
日本の敗戦後、鄭さんのように朝鮮半島へ戻(もど)った人がたくさんいました。日本でさまざまな差別を受けましたが、帰還(きかん)後も原爆放射線による病気のことなどで、周囲の無理解に直面しました。
かつて、日本の外にいる被爆者は国内と違(ちが)って手当がもらえないなど、格差がありました。海外に住む被爆者は、日本の市民や被爆者たちの協力を受けながら「被爆者はどこにいても被爆者だ」と日本政府に訴(うった)え、格差を少しずつ埋(う)めてきました。
鄭さんは、韓国からジュニアライターにメッセージを発信してくれました。「原爆に心も体も苦しめられた被爆者から証言を聞き、思いを受け継(つ)いで」。私たちは、歴史をもっと勉強する必要があります。海外の被爆者や核実験の被害についても知ろうとしなければなりません。
被爆者みんなへの賞
NPO法人ANT―Hiroshima(広島市中区)の渡部久仁子理事(44)=写真=は、日本被団協の代表団とは別に、被爆者たち50人余りとオスロを訪(おとず)れました。高齢者(こうれいしゃ)をサポートしながら、被爆樹木の種を届(とど)けたり、たいまつ行進に参加したりしました。
喜びとともに渡航(とこう)したと私たちは想像していましたが、実際には「浮(う)かれていられなかった」と言います。核保有国が軍備を増やし、核の脅(おど)しが繰(く)り返される中での受賞です。参加者は時間があれば被爆体験を証言し、現地の人に折り鶴を手渡(てわた)すなど忙(いそが)しく活動しました。
授賞式は、会場の近くにある図書館からライブで見ました。渡部さんは原爆犠牲者への国家補償を拒(こば)む日本政府を2度批判(ひはん)した田中熙巳(てるみ)代表委員の演説を聞きながら「被爆者の悔しさや悲しさが伝わってきて、私も涙(なみだ)が出た」と振(ふ)り返ります。
渡部さんは、これまでに出会った被爆者の顔も思い浮かべたそうです。漫画(まんが)「はだしのゲン」作者の故中沢啓治さんや、爆心地に一番近い本川国民学校(現本川小)で被爆した故居森清子さん―。「ノーベル平和賞は、核を巡(めぐ)る世界情勢に怒(いか)り、国に対しても闘(たたか)ってきた被爆者を含(ふく)めて、みんなに贈(おく)られた賞です」と話していました。
私たちが担当しました
高3小林芽衣、高2小林由縁、相馬吏子、中野愛実、藤原花凛、森美涼、吉田真結、高1尾関夏彩、新長志乃、戸田光海、山下裕子、山代夏葵、中3亀居翔成、川鍋岳、西谷真衣、矢沢輝一、行友悠葵、中2石井瑛美、小林真衣、山下綾子、中1岡本龍之介、相馬吏緒、森本希承が担当しました。
ノーベル平和賞授賞式で読まれたスピーチ原稿は こちら
日本被団協の結成宣言「世界への挨拶」は こちら
(2025年2月11日朝刊掲載) ~箕牧智之さんのお話を聞いて~
箕牧さんは、自分なりのやり方で、平和や核兵器廃絶のために行動を続ける大切さを伝えてくれました。戦争を経験していない世代の私は、被爆者や戦争経験者の体験をどう解釈し、どのように伝えればよいか分からず、自分の意見を発信することへの不安がありました。しかし、箕牧さんへの取材を通じ、当事者の視点も大切にしつつ多角的な視点から戦争や平和を見つめ、自分自身で考えることが重要だと学びました。人々が平和に暮らせる世界を実現するためにも、原爆や戦争の体験談をまだ直接聞くことのできる今この時を大切にしていきたいです。今後も、視点が異なるさまざまな人の話を聞き、人々が平和について考えるきっかけとなるような情報を発信していきます。(高2相馬吏子)
被団協のノーベル平和賞受賞について箕牧さんが繰り返し言っていたのは、「私たちの先人が苦労して平和活動をしてきたから、今回の受賞につながった」ということでした。箕牧さんのように今活動している人たちだけでなく、多くの被爆者が自らのつらい経験を未来のために語り、差別や偏見とも闘いながら平和を訴えてきたからこそ、大きな結果につながったことが分かりました。また、箕牧さんたちが受賞の報告に原爆慰霊碑に献花した際、「34万人の皆様」と花束に書き添え、原爆で亡くなったすべての方への思いを表した話を聞きました。34万人の中には、「同じ経験を誰にもさせたくない」という思いを抱きながら、誰にも自らの体験を話さなかった被爆者もいたはずです。すべての被爆者の思いが今の平和をつくっています。被団協の平和賞受賞はすべての被爆者への敬意のメッセージなのだ、と感じました。
被団協の受賞理由の中に、強く印象に残った部分があります。「日本の新しい世代が被爆者の経験とメッセージを継承している」というところです。被団協の受賞は、私に大きな勇気を与えてくれました。次は私たちの番です。「新しい世代」とは、決して若者だけでなく、戦争を経験していないすべての世代のことを指すと私は考えます。箕牧さんが活動する中で一番大切にしてきたことは、「命」だそうです。「命を軽々しく見るから戦争になる。あなたの命も私の命も同じ」。戦争のことはよく分からなくても、命の大切さや相手を思いやることの大切さは多くの人が共通して分かることのはずです。私は、被爆者一人一人の人生に歩み寄ることはもちろん、より多くの人に伝わるように自分なりの伝え方を工夫しながら、核も戦争もない平和な未来をつくるための道を歩んでいこうと思います。(高2藤原花凛)
取材中、箕牧さんは涙を流しました。私も涙が出そうになりました。差別が根強く残る中でも、長い間被団協で活動を続けている被爆者の行動力、意志は本当にすごいと思いました。前理事長の坪井直さんたち先人の話を聞き、私も直接会いたかったという気持ちが沸きました。被爆者が高齢化し、体験を直接聴ける機会が少なくなっている中、被爆者の体験、言葉を後世に伝え続けることは、私たちの世代の責務です。ノーベル平和賞を被団協が受賞した今だからこそ、世界中の人が核兵器の恐ろしさを理解できるよう、交流サイト(SNS)などを活用して発信していきたいです。(高1戸田光海)
「先人のおかげでノーベル賞を受賞できた」。箕牧さんが繰り返す言葉を通じ、日本被団協の長く地道な活動があったからこその受賞だと感じました。箕牧さんは、オスロへ旅立つ前と帰国後、平和記念公園の原爆慰霊碑に献花しました。授賞式では胸ポケットに先人の写真を収めていたそうです。先人の思いを受け継ぐという、強い意志を感じました。「被爆者の思いを継承し、次世代に繋げる」という私自身の思いを省みて、箕牧さんのように強い意志を持たなければ本当に継承することはできないと感じました。
被爆80年という節目を前に、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことは、大きな意義があります。この機会を無駄にせず、私にできることはないかを考え、自分の行動や思いに強い決意を持って世界平和に少しでも貢献したいです。それが、箕牧さんたち被爆者の思いに応えることだと思います。(高1山下裕子)
私がこの取材を通して印象に残ったことは、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したときに箕牧さんが驚きや嬉しさと共に「なぜもっと早く受賞しなかったのか」と感じたことです。私も被団協がノーベル平和賞を受賞するというニュースを見たときに同じことを思いました。被爆者は、計り知れない苦しみを負いながらも、長きにわたり、自らの体験を国内外に伝え続けてきました。箕牧さんはオスロで「活動した先人たちの中には亡くなってしまった人もいるが、その方たちの苦労も今日報われたと思った」と話していました。現在、世界では至る所で戦争、紛争が起こっています。終末時計は90秒を切って89秒となりました。世界恒久平和の実現のために、これからも平和というものがどれだけ大切であるのかを理解し、私たちが今できる取材活動をしていきたいと思いました。(中3亀居翔成)
箕牧さんが受賞の際、先人たちの写真を胸ポケットに入れていたという話が印象に残りました。ノーベル平和賞の受賞は、原爆でつらい思いをした多くの被爆者たち一人一人の平和活動が結実したものだと感じ、その活動の意義や価値を改めて考えました。日本被団協の長い活動の歴史が評価されて世界に発信されたのは良いことですが、日本政府の核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加見送りは残念でした。核廃絶への活動として、被爆証言などの活動も大切ですが、日本政府の動きも重要だと思います。しかし、日本政府の核廃絶への政策を見ると、具体的とは言えないと思います。日本政府が核廃絶へ動くよう、私たちの世代も訴え続けなければならないと強く思いました。(中3川鍋岳)
箕牧さんを取材して特に印象的だったのは、箕牧さんが「これまでの活動を築いてきた多くの先人のおかげ」と話していたことです。授賞式では、広島県被団協の前理事長である坪井直さんたち「先人」の顔が思い浮かんだそうです。「昔は戦争に反対していても言えなかったが、今は戦争反対と声を上げられる時代。だからこそ、しっかりと声を上げてほしい」という箕牧さんの言葉が、今も胸に響いています。日々こうやって平和に幸せに生活することができているのは、箕牧さんや坪井さんをはじめ多くの人々が行動し、声を上げたからこそだと改めて感じました。今もウクライナやパレスチナ自治区ガザなどで戦争が続いています。今まで平和活動を続けてきた多くの人たちのように、私たちも平和な未来を築いていくために声を上げていきたいです。(中2西谷真衣)
ノルウェー・オスロでノーベル平和賞の授賞式に参加した箕牧さんに直接取材することができ、貴重な体験になりました。授賞式で、箕牧さんは受賞の喜びをかみしめると共に、被団協を結成した時期から平和活動に携わった先人に思いをはせたそうです。差別や偏見に苦しみ、体調面でも精神面でもつらく悲しい道のりを被爆者がたどったことを改めて学びました。
授賞式を終えて日本に帰国し、石破首相と面会した時の話も聞きました。3月にある核兵器禁止条約第3回締約国会議にオブザーバー参加してほしいという意思を伝えましたが、首相は参加するともしないとも言わなかったそうです。日本と同じ米国の「核の傘」に頼るノルウェーはオブザーバー参加するのに、日本はなぜしないのかと、とても残念に思いました。被爆国である日本は、核兵器の恐ろしさを世界に発信すべきなのに、その役割を果たせていません。最後に、箕牧さんは、被爆者が一人もいなくなってしまう時は必ずやってくるから、一人一人が平和のあり方を考え、自論を持ってもっと訴えてほしい、と力を込めました。過去の惨禍を再び起こさせないよう、私たち一人一人が平和の重要性を確認し、世の中が間違った方向に進まないよう行動していくことが大事だと実感しました。(中3矢澤輝一)
今回、箕牧さんを取材し、二つのことを心に留めました。一つ目は、地道な平和活動です。ノーベル平和賞受賞は先人の平和活動のおかげだと力を込めていた箕牧さんの話を聞き、私たちも地道な平和活動を大切にしなければならないと思いました。二つ目は、人が戦争をする理由についてです。戦争に至る理由を考えることは戦争の根本的な理解、平和を実現するための行動への理解につながると思います。(中3行友悠葵)
箕牧さんは「とにかく戦争に反対してほしい」と強く訴えていました。証言活動をしてきた中で一番大切にしてきたものは「命」だそうです。私たちは命を軽く見ているから戦争につながる、とにかく戦争をしないでほしいと話していました。
ノーベル平和賞授賞式には、被団協をつくり上げた人たちの写真を持って参加したそうです。授賞式の中で、被団協に関わってきたいろんな人の顔が思い出され、亡くなった被爆者たちがまだ元気なときに受賞したかったと感じたそうです。何もないところから被団協をつくり上げてきた人たちも受賞をしたという意味で、それがとても大切なことだと思い返しました。
箕牧さんは、被爆者の経験を伝えるよりも先に、平和とは何かを自分で考えることが重要だと話していました。私たちがとにかく戦争に反対することは、自分のつらい経験を話してきた被爆者たちにとって、とても勇気づけられる行動になると思います。箕牧さんは「戦争、核兵器が大嫌い、平和が一番」とこれからも伝えていきたいそうです。私たちは、まず平和とは何かを考える必要があると思います。それは被爆者への応援メッセージになり平和への第一歩にもなると思います。(中2石井瑛美)
三つのことが印象に残りました。一つ目は、ノーベル平和賞授賞式の時、箕牧さんの懐には坪井直さんの写真を入れていたということ。先代のひとたちの努力があってこの受賞なのだと分かりました。二つ目は、箕牧さんの父は、原爆について何も語らなかったということです。箕牧さんが「原爆の事を思い出すのが嫌だったんだろう」と話していました。私は、原爆は人の肉体だけでなく、心まで傷つけてしまう恐しいものなのだと改めて感じました。三つ目は、箕牧さんの「平和が大好き」という言葉です。私は、この言葉には沢山の意味がこめられていると感じました。戦争に反対する意志を持ち、その意志を身近な人に伝えていきたいと思いました。(中2小林真衣)
箕牧さんが「戦争」「核兵器」「平和」を伝えていきたいと話していたことが印象に残りました。核兵器と戦争の密接なつながりについて改めて学び、この三つをどれも欠かすことなく、考え伝えていくことが大事だと思いました。私は箕牧さんの三つの言葉を大切に、これからも活動していきます。(中2山下綾子)
箕牧さんの話を聞いて、改めて平和の大切さを実感しました。加えて、日本政府の現状を知ることができました。箕牧さんは1945年3月10日の東京大空襲を経験した後、父の地元の広島に疎開し、8月7日に入市被爆。この経験は、箕牧さんにとって悲しい出来事でもあり、証言で次の世代へ伝えるという皮肉な出来事でもあると考えました。また、箕牧さんたちは、石破首相に国連で開かれる核兵器禁止条約の締約国会議にオブザーバー参加をしてほしいと要求しましたが、行く気がないような反応を見せていたそうです。私は、もっとちゃんとした政治家は日本にいないのかと怒りを覚えました。
「戦争や核兵器には、国を上げて反対しないといけない」という箕牧さんの言葉を、しっかり覚えておきたいです。現在、被爆者の平均年齢が85歳を超え、近いうちに被爆者がいない時代になるからこそ、自分にできることは何かを考え、行動を起こしていきたいです。(中1岡本龍之介)
箕牧さんが、体調が悪い中でも海外へ行ったことや、私たちに必死で伝え続ける姿に、私たち自身が何をすべきかを考えさせられました。貴重な話を聞いて終わりではなく、行動を起こすことが大切です。日本もいつ戦争を始めるか分かりません。だからこそ、二度と過ちを繰り返さないという方向に、みんなが一緒に進めるようにしなければいけないと思いました。「命の重さは皆同じ。戦争や核兵器に反対し、平和を一番に大切にしてほしい」という箕牧さんの言葉を胸に、これからも活動を続けていきたいです。(中1相馬吏緒)
箕牧さんを取材し、二つのことが心に残りました。 一つ目は、命は皆、同じ重さだということです。「命を軽く見るから戦争が起きている」と箕牧さんは言っていました。現在、ウクライナやパレスチナ自治区ガザでは戦争が続いています。ニュースを見ていると、人質解放のためなら、攻撃が必要だという言葉を耳にします。でも、僕は、どんな理由をつけようとも、武力に頼ってはならないと考えます。人質の解放は、交渉で行われるべきです。
二つ目は、「お金は防衛費増額ではなく、福祉に役立ててほしい」という箕牧さんの言葉です。僕は、とても共感しました。日本の防衛費増額は、問題を武力で解決しようという姿勢であり、そのようなことは決して許されないと思います。僕は、箕牧さんが挙げた福祉に加えて、例えば国際交流に使うというのもいいと思います。海外からの留学生や、日本人の海外留学を支援して、お互いを理解しあう土壌をつくることが、争いの起こらない世界に必要だと思います。(中1森本希承)
~浜住治郎さんのお話を聞いて~
胎内被爆者である浜住治郎さんから、日本被団協の田中代表のスピーチ内容について解説を受けて、その重みを一層理解することができました。「被爆者」ではなく敢えて「原爆被害者」という言葉を用いた背景には、放射能による直接的な被害は受けていないものの、周囲からの無理解に苦しんだ方々の存在があるのだと学びました。また戦争においては、みな被害を受けたのだから、何らかの被害を受けても我慢しなければならないという受忍論にも、国の無責任さを感じました。しかし、戦争を引き起こした国家に対して、長く声を大にして抗うことができなかった、先人たちの無念さは計り知れないものだと思います。だからこそ、田中代表が敢えてアドリブで「国家補償」について二度も言及したのだと、この点に関しても深く理解することができました。
「先輩たちが残してきたことを引き継いで、一つ一つ大事に登っていくことが大切」と浜住さんが話したように、被団協を始めとした市民活動の歩みを今一度勉強して、核廃絶に向けて私も行動に移したいと思います。(高3小林芽衣)
浜住さんを取材して、広島、長崎だけでなく、各地に住む人たちが活動する被爆者の会が存在することを知りました。原爆によってくらし・こころ・からだに大きな被害を受けた人々が、その悲しみを共有し、結束し、これまでの平和活動に尽力してきました。80年間に渡り紡がれたこの思いを、私たちが正しく理解し、受け継いでいかなければならないと感じました。
そんな中で、浜住さんの説明で新しく知ったことがあります。「被爆者」と「原爆被害者」という言葉の意味の違いです。被爆者とは、直接被爆した人、原爆投下後二週間以内に広島市もしくは長崎市に立ち入った人、放射能を浴びた人、母親の胎内で被爆した人と定められています。一方で原爆被害者とは、上記に当てはまらなくても、原爆によって家族を亡くした原爆孤児や、健康不安を抱える被爆二世など、原爆によって被害を被った全ての人を指します。これまで、原爆で被害を受けたのは被爆した人だけではないと分かっていても、一括りに「被爆者」という言葉を使ってしまっていました。こういった言葉の意味合いの違いをよく理解し、ジュニアライターとして責任感を持って正しい情報を発信していかなければならないと改めて感じました。(高2吉田真結)
~渡部久仁子さんのお話を聞いて~
日本被団協のノーベル平和賞の受賞に際して、公式団のサポーターとしてオスロに渡航した渡部久仁子さんを取材しました。授賞式のスピーチで、田中煕巳代表が「国家補償」について2度言及したことが印象に残っているそうです。田中代表が、わざわざ公式の場でアドリブで2回も話し、その必要性や怒りを強調しなければいけなかったこと、またそれを長年声を大にして言えなかったことに悔しさを覚えたと仰いました。私もテレビの前で視聴していましたが、そこまで感じ取ることはできませんでした。国家権力に対して抗い続けてきたことが評価された市民団体の軌跡や苦悩を、もっと勉強したいと思います。(高3小林芽衣)
今回の取材でとても印象に残った言葉があります。それは、「私たちは誰しも被害者である」という言葉です。私たち10代は、1945年8月6日や9日に原子爆弾の被害に遭ってはいません。しかし、核実験が絶えず行われている現在、放射能の影響を全く受けていない人など、この世界に存在していないのです。そして、どこかで戦争が起きているこの世界を引き継いでいくのは、私たち10代です。渡部さんはジュニアライターに「戦争のある世界を創り、そのままにしている大人にもっと怒っていいんだよ」と伝えました。選挙権をまだ持っていない今でもできることがあると気付かされ、勇気をもらいました。「未成年」という私に残された貴重な半年を、ジュニアライターの活動で有意義に使いたいです。(高2森美涼)
渡部さんの話を聞いて感じたことは、きっかけさえあれば平和への意識が伝染していくということです。渡部さんたちはオスロで、日本被団協のノーベル平和賞受賞を祝うたいまつ行列に参加しました。その中で、現地の人から「受賞おめでとうございます」と話しかけられたり、折り鶴を手渡すと喜んでもらえたりしたそうです。ノーベル平和賞受賞をきっかけに、世界がヒロシマ・ナガサキの声にもっと耳を傾けようという意識を持つようになったのではないかと考えました。ジュニアライターとしての活動を続けることで、私たちも誰かの平和への関心を持つきっかけづくりをしたいです。(高2中野愛実)
ノーベル賞受賞式での田中さんのスピーチを聞いて、渡部さんは感動よりも「悔しい」という感情の方が強かったそうです。その悔しさはこの80年で核が広がり、被爆者の訴えが届いていない現実に対するものでした。被爆者も、ヒロシマやナガサキについてや核兵器の恐ろしさを伝えたい一心で活動しています。それでも自分の思いが届かず、つらいと感じることも今までに何度もあったと思います。今回の受賞が世界中の人々が被爆者に関心をもつ機会につながってほしいです。渡部さんは若者にもっと広島、長崎、そして世界に関心を持ってもらいたいです。私も現場に行き、そこで学んだことを自分の経験として深め、より多くの人に共有していきたいです。(高1山代夏葵)
原爆被害者は直接被爆された方だけでなく、入市被爆した人や、留学生として日本にいた外国人の方も当たると知りました。オスロを訪れた被爆者の佐久間邦彦さんが被爆樹木ついて「世界を見詰めているんだ」と言い、「静かなる証言者」と語ったと聞き、印象に残りました。取材から、原爆は人間だけでなくあらゆるものの命を奪うと気付かされました。今後は被爆者の平均年齢は高くなり、「語ることのできる証言者」は近い将来完全にいなくなります。被爆当時から立っていた「静かなる証言者」も大切にし、私たちは未来の平和を深く考え、共有していくべきだと強く感じました。(高1新長志乃)
渡部さんのお話を聞いて、人に原爆のことをより詳しく正確に伝えるために、意識していきたいことが三つ見つかりました。
一つ目は、私自身が原爆について詳しく知っておくことです。人に伝えるためには、私自身が知識を持つことが大切です。二つ目は、原爆について調べる時に、できるだけ現場に行くことです。現場で五感で感じ取れば、より詳しく伝える事ができると思うからです。三つ目は、取材で言われた言葉の意味をもっと理解することです。取材で話してくれる言葉一つ一つには深い意味がたくさん込められていると思います。
この三つを意識して取材に取組みたいと思いました。(中2小林真衣)
私が一番心に残ったことは、日本被団協がノーベル平和賞を受賞 したことについて悔しいとおっしゃっていたことです。渡部さんは、ノーベル平和賞を受賞したのに原爆の犠牲者に対して国家補償がないことはとても残念だとおっしゃっていました。また、ノーベル平和賞授賞式に合わせてノルウェーに行った時の話を聞いて、ノルウェーの人々はとても親切だと思いました。被爆証言を自分から歩み寄って聞こうとする人が多くいたそうです。戦争も核兵器もいや、という思いも強いと知りました。 渡部さんへの取材を通して、まずは知ることが大切だと思いました。いろんな人の意見を聞く前にしっかり調べることで本質が分かり、自分の意見ができきてきます。(中2石井瑛美)
渡部さんから、ノルウェーのことについても興味深く聞きました。オスロの国会議員は日本とは違い、女性と男性の割合は半々だそうです。ノルウェーは、ジェンダーギャップ指数が世界3位ですが、日本は118位という大きな違いに私はモヤモヤしました。SDGs17の目標の中の5番目に、「ジェンダー平等を実現しよう」という項目があるのにもかかわらずです。今の日本は、本当に平和といえるのかなと思います。例えば、体育の授業では男子と女子が完全に分かれ全く別のことをします。私はピアノを習っていますが、ピアノを弾くと「男の子なのにすごいね」と言われます。テレビや新聞を見ても、政治家や会社の社長は男性ばかりです。なぜなのでしょうか。取材内容とは少し話がずれてしまいましたが、ジェンダーにまつわる様々な社会問題が、平和や私たちの生活を入り込んでいると考えました。(中1岡本龍之介)
渡部さんを取材して、印象に残ったことがあります。 それは、今回、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのは、世界各地で戦争や紛争が起きているからこそのことであり、受賞を素直に喜ぶことはできないということです。確かに、世界で争いが起きなければ、被団協は受賞しなかったかもしれません。このことを踏まえて、僕は、被団協などの団体や人が活動をしなくても世界の平和が保たれることが本当の平和というのだと考えます。 (中1森本希承)
先人の苦労を思い登壇
広島県被団協 箕牧智之理事長
核禁条約 後ろ向きな政府に落胆
授賞式では、被爆者3人が登壇(とうだん)しました。その一人、日本被団協の代表委員で広島県被団協の箕牧(みまき)智之理事長(82)は、賞状を受け取りました。「ずっしりと重かった」と言います。
森滝市郎さん、坪井直(すなお)さん、肥田舜太郎医師、長崎の被爆者谷口稜曄(すみてる)さん…。壇上(だんじょう)で、被団協の活動を支えた「先人」を思い出しました。「一から組織や運動をつくるには相当な苦労があったろう。長い歴史の上に今がある」。当日、胸(むね)ポケットに先人たちの写真を入れていました。
授賞式の夜、受賞者をたたえるたいまつ行進がありました。「国を挙げて受賞を祝ってくれている」と感じました。しかし、日本に帰った後は、厳(きび)しい現実も痛感しています。
今年初め、東京の首相官邸(かんてい)で石破茂首相と面会しました。首相は、核兵器禁止条約の参加に後ろ向きです。自国の安全を守るには米国の核兵器が必要、とする「核の傘」への依存が日本の政策(せいさく)だからです。
3月にある第3回締約(ていやく)国会議にオブザーバー参加するかどうかは「『考える』とも言わんかった」。落胆(らくたん)と憤(いきどお)りをにじませながら、箕牧さんは若(わか)い世代への思いも話してくれました。「戦争へ進み始めるとブレーキが利かなくなる。絶対に反対してください」
【核兵器禁止条約】
核兵器を造る、持つ、他の国にあげる、もらう、などを全面的に禁止する国際条約です。今、73カ国・地域が加盟しています。日本は被爆国ですが条約に加盟(かめい)しようとしません。
加盟国は3月3日から国連本部で開かれる3回目の「締約国(ていやくこく)会議」に集います。加盟国以外でも、希望すれば「オブザーバー」として参加し、意見を述べることができます。日本被団協などは「せめてオブザーバー参加を」と強く訴えていますが、日本政府は参加しない方針です。
日本被団協 浜住治郎事務局次長
「国の償い」と「廃絶」 活動の両輪
演説の中で田中熙巳(てるみ)代表委員が訴(うった)えたのは「核兵器廃絶」だけではありません。最初に、日本被団協が掲(かか)げる「二つの基本要求」について述べました。「原爆で亡くなった死者に対する償(つぐな)いは、日本政府は全くしていない事実をお知りいただきたい」という言葉も。どんな意味なのでしょうか。浜住(はますみ)治郎事務局次長(79)=東京都稲城(いなぎ)市=に聞きました。
要求の一つ目は、国の起こした戦争で被害を受けても受忍(じゅにん)(がまん)させられるのは絶対に許せない、国によって補償(ほしょう)されなければならない、という訴えです。二つ目が「核兵器廃絶」です。「これらは再び戦争をさせず、被爆者をつくらないための『車の両輪』です」
被爆者には手当や医療費などの援助(えんじょ)があり、1994年には被爆者援護(えんご)法ができました。しかし国が戦争をした責任を取って「償う」のではなく、「被爆者」を「援護」する制度です。そのため、即死(そくし)したり早くに亡くなったりした市民、被爆していない孤児(こじ)や遺族(いぞく)の多くには何もないのです。「原爆被害者」は「被爆者」だけではありません。
私たちは56年に日本被団協が結成された時の宣言文「世界への挨拶(あいさつ)」も読みました。浜住さんは「被爆者は最初から体験を証言できたのではなかった。戦後11年の悩(なや)み、怒(いか)り、苦しみの中で人々がつながっていったことを知ってほしい」と強調します。
浜住さんは、母親が妊娠(にんしん)3カ月の時に広島で胎内(たいない)被爆しました。父親は爆心地から約500メートルで被爆死。ベルトのバックルなどの遺品が残っただけでした。矢賀(現東区)の自宅には親類たち約30人が避難(ひなん)してきました。3歳のいとこたちが突然(とつぜん)体調を崩して亡くなったそうです。
約20年前に稲城市で被爆者の会を結成し、2014年に胎内被爆者の全国連絡会にも加わって体験手記を寄せるなどの活動をしています。19年には国連本部で証言し、常に健康に不安を抱えている「生まれる前から被爆者だった」人間の苦しみを世界に伝えました。
浜住さんによると、田中さんの演説でのアドリブは「現在の戦争で、被害は補償されているか」という問いでもありました。今、世界の国々が市民の犠牲(ぎせい)に責任を取ることなく戦争をしています。
韓国原爆被害者協会 鄭源述会長
韓国にも被爆者 知ってほしい
日本被団協の代表団として授賞式に出席した人たちの中に、広島で被爆した韓国(かんこく)人の鄭源述(チョンウォンスル)さん(81)もいました。韓国原爆被害者協会の会長です。「韓国にも被爆者がいることを知ってほしい」と伝統衣装(いしょう)の「韓服」を着て、最前列に座(すわ)りました。
朝鮮(ちょうせん)半島では、日本の植民地にされた1910年以降(いこう)、貧(まず)しい生活や徴用(ちょうよう)、徴兵などを理由に多くの人が日本に渡(わた)り、被爆しました。1歳だった鄭さんに当時の記憶(きおく)はありません。
日本の敗戦後、鄭さんのように朝鮮半島へ戻(もど)った人がたくさんいました。日本でさまざまな差別を受けましたが、帰還(きかん)後も原爆放射線による病気のことなどで、周囲の無理解に直面しました。
かつて、日本の外にいる被爆者は国内と違(ちが)って手当がもらえないなど、格差がありました。海外に住む被爆者は、日本の市民や被爆者たちの協力を受けながら「被爆者はどこにいても被爆者だ」と日本政府に訴(うった)え、格差を少しずつ埋(う)めてきました。
鄭さんは、韓国からジュニアライターにメッセージを発信してくれました。「原爆に心も体も苦しめられた被爆者から証言を聞き、思いを受け継(つ)いで」。私たちは、歴史をもっと勉強する必要があります。海外の被爆者や核実験の被害についても知ろうとしなければなりません。
NPO法人 渡部久仁子理事
被爆者みんなへの賞
NPO法人ANT―Hiroshima(広島市中区)の渡部久仁子理事(44)=写真=は、日本被団協の代表団とは別に、被爆者たち50人余りとオスロを訪(おとず)れました。高齢者(こうれいしゃ)をサポートしながら、被爆樹木の種を届(とど)けたり、たいまつ行進に参加したりしました。
喜びとともに渡航(とこう)したと私たちは想像していましたが、実際には「浮(う)かれていられなかった」と言います。核保有国が軍備を増やし、核の脅(おど)しが繰(く)り返される中での受賞です。参加者は時間があれば被爆体験を証言し、現地の人に折り鶴を手渡(てわた)すなど忙(いそが)しく活動しました。
授賞式は、会場の近くにある図書館からライブで見ました。渡部さんは原爆犠牲者への国家補償を拒(こば)む日本政府を2度批判(ひはん)した田中熙巳(てるみ)代表委員の演説を聞きながら「被爆者の悔しさや悲しさが伝わってきて、私も涙(なみだ)が出た」と振(ふ)り返ります。
渡部さんは、これまでに出会った被爆者の顔も思い浮かべたそうです。漫画(まんが)「はだしのゲン」作者の故中沢啓治さんや、爆心地に一番近い本川国民学校(現本川小)で被爆した故居森清子さん―。「ノーベル平和賞は、核を巡(めぐ)る世界情勢に怒(いか)り、国に対しても闘(たたか)ってきた被爆者を含(ふく)めて、みんなに贈(おく)られた賞です」と話していました。
私たちが担当しました
高3小林芽衣、高2小林由縁、相馬吏子、中野愛実、藤原花凛、森美涼、吉田真結、高1尾関夏彩、新長志乃、戸田光海、山下裕子、山代夏葵、中3亀居翔成、川鍋岳、西谷真衣、矢沢輝一、行友悠葵、中2石井瑛美、小林真衣、山下綾子、中1岡本龍之介、相馬吏緒、森本希承が担当しました。
ノーベル平和賞授賞式で読まれたスピーチ原稿は こちら
日本被団協の結成宣言「世界への挨拶」は こちら
(2025年2月11日朝刊掲載) ~箕牧智之さんのお話を聞いて~
箕牧さんは、自分なりのやり方で、平和や核兵器廃絶のために行動を続ける大切さを伝えてくれました。戦争を経験していない世代の私は、被爆者や戦争経験者の体験をどう解釈し、どのように伝えればよいか分からず、自分の意見を発信することへの不安がありました。しかし、箕牧さんへの取材を通じ、当事者の視点も大切にしつつ多角的な視点から戦争や平和を見つめ、自分自身で考えることが重要だと学びました。人々が平和に暮らせる世界を実現するためにも、原爆や戦争の体験談をまだ直接聞くことのできる今この時を大切にしていきたいです。今後も、視点が異なるさまざまな人の話を聞き、人々が平和について考えるきっかけとなるような情報を発信していきます。(高2相馬吏子)
被団協のノーベル平和賞受賞について箕牧さんが繰り返し言っていたのは、「私たちの先人が苦労して平和活動をしてきたから、今回の受賞につながった」ということでした。箕牧さんのように今活動している人たちだけでなく、多くの被爆者が自らのつらい経験を未来のために語り、差別や偏見とも闘いながら平和を訴えてきたからこそ、大きな結果につながったことが分かりました。また、箕牧さんたちが受賞の報告に原爆慰霊碑に献花した際、「34万人の皆様」と花束に書き添え、原爆で亡くなったすべての方への思いを表した話を聞きました。34万人の中には、「同じ経験を誰にもさせたくない」という思いを抱きながら、誰にも自らの体験を話さなかった被爆者もいたはずです。すべての被爆者の思いが今の平和をつくっています。被団協の平和賞受賞はすべての被爆者への敬意のメッセージなのだ、と感じました。
被団協の受賞理由の中に、強く印象に残った部分があります。「日本の新しい世代が被爆者の経験とメッセージを継承している」というところです。被団協の受賞は、私に大きな勇気を与えてくれました。次は私たちの番です。「新しい世代」とは、決して若者だけでなく、戦争を経験していないすべての世代のことを指すと私は考えます。箕牧さんが活動する中で一番大切にしてきたことは、「命」だそうです。「命を軽々しく見るから戦争になる。あなたの命も私の命も同じ」。戦争のことはよく分からなくても、命の大切さや相手を思いやることの大切さは多くの人が共通して分かることのはずです。私は、被爆者一人一人の人生に歩み寄ることはもちろん、より多くの人に伝わるように自分なりの伝え方を工夫しながら、核も戦争もない平和な未来をつくるための道を歩んでいこうと思います。(高2藤原花凛)
取材中、箕牧さんは涙を流しました。私も涙が出そうになりました。差別が根強く残る中でも、長い間被団協で活動を続けている被爆者の行動力、意志は本当にすごいと思いました。前理事長の坪井直さんたち先人の話を聞き、私も直接会いたかったという気持ちが沸きました。被爆者が高齢化し、体験を直接聴ける機会が少なくなっている中、被爆者の体験、言葉を後世に伝え続けることは、私たちの世代の責務です。ノーベル平和賞を被団協が受賞した今だからこそ、世界中の人が核兵器の恐ろしさを理解できるよう、交流サイト(SNS)などを活用して発信していきたいです。(高1戸田光海)
「先人のおかげでノーベル賞を受賞できた」。箕牧さんが繰り返す言葉を通じ、日本被団協の長く地道な活動があったからこその受賞だと感じました。箕牧さんは、オスロへ旅立つ前と帰国後、平和記念公園の原爆慰霊碑に献花しました。授賞式では胸ポケットに先人の写真を収めていたそうです。先人の思いを受け継ぐという、強い意志を感じました。「被爆者の思いを継承し、次世代に繋げる」という私自身の思いを省みて、箕牧さんのように強い意志を持たなければ本当に継承することはできないと感じました。
被爆80年という節目を前に、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことは、大きな意義があります。この機会を無駄にせず、私にできることはないかを考え、自分の行動や思いに強い決意を持って世界平和に少しでも貢献したいです。それが、箕牧さんたち被爆者の思いに応えることだと思います。(高1山下裕子)
私がこの取材を通して印象に残ったことは、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したときに箕牧さんが驚きや嬉しさと共に「なぜもっと早く受賞しなかったのか」と感じたことです。私も被団協がノーベル平和賞を受賞するというニュースを見たときに同じことを思いました。被爆者は、計り知れない苦しみを負いながらも、長きにわたり、自らの体験を国内外に伝え続けてきました。箕牧さんはオスロで「活動した先人たちの中には亡くなってしまった人もいるが、その方たちの苦労も今日報われたと思った」と話していました。現在、世界では至る所で戦争、紛争が起こっています。終末時計は90秒を切って89秒となりました。世界恒久平和の実現のために、これからも平和というものがどれだけ大切であるのかを理解し、私たちが今できる取材活動をしていきたいと思いました。(中3亀居翔成)
箕牧さんが受賞の際、先人たちの写真を胸ポケットに入れていたという話が印象に残りました。ノーベル平和賞の受賞は、原爆でつらい思いをした多くの被爆者たち一人一人の平和活動が結実したものだと感じ、その活動の意義や価値を改めて考えました。日本被団協の長い活動の歴史が評価されて世界に発信されたのは良いことですが、日本政府の核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加見送りは残念でした。核廃絶への活動として、被爆証言などの活動も大切ですが、日本政府の動きも重要だと思います。しかし、日本政府の核廃絶への政策を見ると、具体的とは言えないと思います。日本政府が核廃絶へ動くよう、私たちの世代も訴え続けなければならないと強く思いました。(中3川鍋岳)
箕牧さんを取材して特に印象的だったのは、箕牧さんが「これまでの活動を築いてきた多くの先人のおかげ」と話していたことです。授賞式では、広島県被団協の前理事長である坪井直さんたち「先人」の顔が思い浮かんだそうです。「昔は戦争に反対していても言えなかったが、今は戦争反対と声を上げられる時代。だからこそ、しっかりと声を上げてほしい」という箕牧さんの言葉が、今も胸に響いています。日々こうやって平和に幸せに生活することができているのは、箕牧さんや坪井さんをはじめ多くの人々が行動し、声を上げたからこそだと改めて感じました。今もウクライナやパレスチナ自治区ガザなどで戦争が続いています。今まで平和活動を続けてきた多くの人たちのように、私たちも平和な未来を築いていくために声を上げていきたいです。(中2西谷真衣)
ノルウェー・オスロでノーベル平和賞の授賞式に参加した箕牧さんに直接取材することができ、貴重な体験になりました。授賞式で、箕牧さんは受賞の喜びをかみしめると共に、被団協を結成した時期から平和活動に携わった先人に思いをはせたそうです。差別や偏見に苦しみ、体調面でも精神面でもつらく悲しい道のりを被爆者がたどったことを改めて学びました。
授賞式を終えて日本に帰国し、石破首相と面会した時の話も聞きました。3月にある核兵器禁止条約第3回締約国会議にオブザーバー参加してほしいという意思を伝えましたが、首相は参加するともしないとも言わなかったそうです。日本と同じ米国の「核の傘」に頼るノルウェーはオブザーバー参加するのに、日本はなぜしないのかと、とても残念に思いました。被爆国である日本は、核兵器の恐ろしさを世界に発信すべきなのに、その役割を果たせていません。最後に、箕牧さんは、被爆者が一人もいなくなってしまう時は必ずやってくるから、一人一人が平和のあり方を考え、自論を持ってもっと訴えてほしい、と力を込めました。過去の惨禍を再び起こさせないよう、私たち一人一人が平和の重要性を確認し、世の中が間違った方向に進まないよう行動していくことが大事だと実感しました。(中3矢澤輝一)
今回、箕牧さんを取材し、二つのことを心に留めました。一つ目は、地道な平和活動です。ノーベル平和賞受賞は先人の平和活動のおかげだと力を込めていた箕牧さんの話を聞き、私たちも地道な平和活動を大切にしなければならないと思いました。二つ目は、人が戦争をする理由についてです。戦争に至る理由を考えることは戦争の根本的な理解、平和を実現するための行動への理解につながると思います。(中3行友悠葵)
箕牧さんは「とにかく戦争に反対してほしい」と強く訴えていました。証言活動をしてきた中で一番大切にしてきたものは「命」だそうです。私たちは命を軽く見ているから戦争につながる、とにかく戦争をしないでほしいと話していました。
ノーベル平和賞授賞式には、被団協をつくり上げた人たちの写真を持って参加したそうです。授賞式の中で、被団協に関わってきたいろんな人の顔が思い出され、亡くなった被爆者たちがまだ元気なときに受賞したかったと感じたそうです。何もないところから被団協をつくり上げてきた人たちも受賞をしたという意味で、それがとても大切なことだと思い返しました。
箕牧さんは、被爆者の経験を伝えるよりも先に、平和とは何かを自分で考えることが重要だと話していました。私たちがとにかく戦争に反対することは、自分のつらい経験を話してきた被爆者たちにとって、とても勇気づけられる行動になると思います。箕牧さんは「戦争、核兵器が大嫌い、平和が一番」とこれからも伝えていきたいそうです。私たちは、まず平和とは何かを考える必要があると思います。それは被爆者への応援メッセージになり平和への第一歩にもなると思います。(中2石井瑛美)
三つのことが印象に残りました。一つ目は、ノーベル平和賞授賞式の時、箕牧さんの懐には坪井直さんの写真を入れていたということ。先代のひとたちの努力があってこの受賞なのだと分かりました。二つ目は、箕牧さんの父は、原爆について何も語らなかったということです。箕牧さんが「原爆の事を思い出すのが嫌だったんだろう」と話していました。私は、原爆は人の肉体だけでなく、心まで傷つけてしまう恐しいものなのだと改めて感じました。三つ目は、箕牧さんの「平和が大好き」という言葉です。私は、この言葉には沢山の意味がこめられていると感じました。戦争に反対する意志を持ち、その意志を身近な人に伝えていきたいと思いました。(中2小林真衣)
箕牧さんが「戦争」「核兵器」「平和」を伝えていきたいと話していたことが印象に残りました。核兵器と戦争の密接なつながりについて改めて学び、この三つをどれも欠かすことなく、考え伝えていくことが大事だと思いました。私は箕牧さんの三つの言葉を大切に、これからも活動していきます。(中2山下綾子)
箕牧さんの話を聞いて、改めて平和の大切さを実感しました。加えて、日本政府の現状を知ることができました。箕牧さんは1945年3月10日の東京大空襲を経験した後、父の地元の広島に疎開し、8月7日に入市被爆。この経験は、箕牧さんにとって悲しい出来事でもあり、証言で次の世代へ伝えるという皮肉な出来事でもあると考えました。また、箕牧さんたちは、石破首相に国連で開かれる核兵器禁止条約の締約国会議にオブザーバー参加をしてほしいと要求しましたが、行く気がないような反応を見せていたそうです。私は、もっとちゃんとした政治家は日本にいないのかと怒りを覚えました。
「戦争や核兵器には、国を上げて反対しないといけない」という箕牧さんの言葉を、しっかり覚えておきたいです。現在、被爆者の平均年齢が85歳を超え、近いうちに被爆者がいない時代になるからこそ、自分にできることは何かを考え、行動を起こしていきたいです。(中1岡本龍之介)
箕牧さんが、体調が悪い中でも海外へ行ったことや、私たちに必死で伝え続ける姿に、私たち自身が何をすべきかを考えさせられました。貴重な話を聞いて終わりではなく、行動を起こすことが大切です。日本もいつ戦争を始めるか分かりません。だからこそ、二度と過ちを繰り返さないという方向に、みんなが一緒に進めるようにしなければいけないと思いました。「命の重さは皆同じ。戦争や核兵器に反対し、平和を一番に大切にしてほしい」という箕牧さんの言葉を胸に、これからも活動を続けていきたいです。(中1相馬吏緒)
箕牧さんを取材し、二つのことが心に残りました。 一つ目は、命は皆、同じ重さだということです。「命を軽く見るから戦争が起きている」と箕牧さんは言っていました。現在、ウクライナやパレスチナ自治区ガザでは戦争が続いています。ニュースを見ていると、人質解放のためなら、攻撃が必要だという言葉を耳にします。でも、僕は、どんな理由をつけようとも、武力に頼ってはならないと考えます。人質の解放は、交渉で行われるべきです。
二つ目は、「お金は防衛費増額ではなく、福祉に役立ててほしい」という箕牧さんの言葉です。僕は、とても共感しました。日本の防衛費増額は、問題を武力で解決しようという姿勢であり、そのようなことは決して許されないと思います。僕は、箕牧さんが挙げた福祉に加えて、例えば国際交流に使うというのもいいと思います。海外からの留学生や、日本人の海外留学を支援して、お互いを理解しあう土壌をつくることが、争いの起こらない世界に必要だと思います。(中1森本希承)
~浜住治郎さんのお話を聞いて~
胎内被爆者である浜住治郎さんから、日本被団協の田中代表のスピーチ内容について解説を受けて、その重みを一層理解することができました。「被爆者」ではなく敢えて「原爆被害者」という言葉を用いた背景には、放射能による直接的な被害は受けていないものの、周囲からの無理解に苦しんだ方々の存在があるのだと学びました。また戦争においては、みな被害を受けたのだから、何らかの被害を受けても我慢しなければならないという受忍論にも、国の無責任さを感じました。しかし、戦争を引き起こした国家に対して、長く声を大にして抗うことができなかった、先人たちの無念さは計り知れないものだと思います。だからこそ、田中代表が敢えてアドリブで「国家補償」について二度も言及したのだと、この点に関しても深く理解することができました。
「先輩たちが残してきたことを引き継いで、一つ一つ大事に登っていくことが大切」と浜住さんが話したように、被団協を始めとした市民活動の歩みを今一度勉強して、核廃絶に向けて私も行動に移したいと思います。(高3小林芽衣)
浜住さんを取材して、広島、長崎だけでなく、各地に住む人たちが活動する被爆者の会が存在することを知りました。原爆によってくらし・こころ・からだに大きな被害を受けた人々が、その悲しみを共有し、結束し、これまでの平和活動に尽力してきました。80年間に渡り紡がれたこの思いを、私たちが正しく理解し、受け継いでいかなければならないと感じました。
そんな中で、浜住さんの説明で新しく知ったことがあります。「被爆者」と「原爆被害者」という言葉の意味の違いです。被爆者とは、直接被爆した人、原爆投下後二週間以内に広島市もしくは長崎市に立ち入った人、放射能を浴びた人、母親の胎内で被爆した人と定められています。一方で原爆被害者とは、上記に当てはまらなくても、原爆によって家族を亡くした原爆孤児や、健康不安を抱える被爆二世など、原爆によって被害を被った全ての人を指します。これまで、原爆で被害を受けたのは被爆した人だけではないと分かっていても、一括りに「被爆者」という言葉を使ってしまっていました。こういった言葉の意味合いの違いをよく理解し、ジュニアライターとして責任感を持って正しい情報を発信していかなければならないと改めて感じました。(高2吉田真結)
~渡部久仁子さんのお話を聞いて~
日本被団協のノーベル平和賞の受賞に際して、公式団のサポーターとしてオスロに渡航した渡部久仁子さんを取材しました。授賞式のスピーチで、田中煕巳代表が「国家補償」について2度言及したことが印象に残っているそうです。田中代表が、わざわざ公式の場でアドリブで2回も話し、その必要性や怒りを強調しなければいけなかったこと、またそれを長年声を大にして言えなかったことに悔しさを覚えたと仰いました。私もテレビの前で視聴していましたが、そこまで感じ取ることはできませんでした。国家権力に対して抗い続けてきたことが評価された市民団体の軌跡や苦悩を、もっと勉強したいと思います。(高3小林芽衣)
今回の取材でとても印象に残った言葉があります。それは、「私たちは誰しも被害者である」という言葉です。私たち10代は、1945年8月6日や9日に原子爆弾の被害に遭ってはいません。しかし、核実験が絶えず行われている現在、放射能の影響を全く受けていない人など、この世界に存在していないのです。そして、どこかで戦争が起きているこの世界を引き継いでいくのは、私たち10代です。渡部さんはジュニアライターに「戦争のある世界を創り、そのままにしている大人にもっと怒っていいんだよ」と伝えました。選挙権をまだ持っていない今でもできることがあると気付かされ、勇気をもらいました。「未成年」という私に残された貴重な半年を、ジュニアライターの活動で有意義に使いたいです。(高2森美涼)
渡部さんの話を聞いて感じたことは、きっかけさえあれば平和への意識が伝染していくということです。渡部さんたちはオスロで、日本被団協のノーベル平和賞受賞を祝うたいまつ行列に参加しました。その中で、現地の人から「受賞おめでとうございます」と話しかけられたり、折り鶴を手渡すと喜んでもらえたりしたそうです。ノーベル平和賞受賞をきっかけに、世界がヒロシマ・ナガサキの声にもっと耳を傾けようという意識を持つようになったのではないかと考えました。ジュニアライターとしての活動を続けることで、私たちも誰かの平和への関心を持つきっかけづくりをしたいです。(高2中野愛実)
ノーベル賞受賞式での田中さんのスピーチを聞いて、渡部さんは感動よりも「悔しい」という感情の方が強かったそうです。その悔しさはこの80年で核が広がり、被爆者の訴えが届いていない現実に対するものでした。被爆者も、ヒロシマやナガサキについてや核兵器の恐ろしさを伝えたい一心で活動しています。それでも自分の思いが届かず、つらいと感じることも今までに何度もあったと思います。今回の受賞が世界中の人々が被爆者に関心をもつ機会につながってほしいです。渡部さんは若者にもっと広島、長崎、そして世界に関心を持ってもらいたいです。私も現場に行き、そこで学んだことを自分の経験として深め、より多くの人に共有していきたいです。(高1山代夏葵)
原爆被害者は直接被爆された方だけでなく、入市被爆した人や、留学生として日本にいた外国人の方も当たると知りました。オスロを訪れた被爆者の佐久間邦彦さんが被爆樹木ついて「世界を見詰めているんだ」と言い、「静かなる証言者」と語ったと聞き、印象に残りました。取材から、原爆は人間だけでなくあらゆるものの命を奪うと気付かされました。今後は被爆者の平均年齢は高くなり、「語ることのできる証言者」は近い将来完全にいなくなります。被爆当時から立っていた「静かなる証言者」も大切にし、私たちは未来の平和を深く考え、共有していくべきだと強く感じました。(高1新長志乃)
渡部さんのお話を聞いて、人に原爆のことをより詳しく正確に伝えるために、意識していきたいことが三つ見つかりました。
一つ目は、私自身が原爆について詳しく知っておくことです。人に伝えるためには、私自身が知識を持つことが大切です。二つ目は、原爆について調べる時に、できるだけ現場に行くことです。現場で五感で感じ取れば、より詳しく伝える事ができると思うからです。三つ目は、取材で言われた言葉の意味をもっと理解することです。取材で話してくれる言葉一つ一つには深い意味がたくさん込められていると思います。
この三つを意識して取材に取組みたいと思いました。(中2小林真衣)
私が一番心に残ったことは、日本被団協がノーベル平和賞を受賞 したことについて悔しいとおっしゃっていたことです。渡部さんは、ノーベル平和賞を受賞したのに原爆の犠牲者に対して国家補償がないことはとても残念だとおっしゃっていました。また、ノーベル平和賞授賞式に合わせてノルウェーに行った時の話を聞いて、ノルウェーの人々はとても親切だと思いました。被爆証言を自分から歩み寄って聞こうとする人が多くいたそうです。戦争も核兵器もいや、という思いも強いと知りました。 渡部さんへの取材を通して、まずは知ることが大切だと思いました。いろんな人の意見を聞く前にしっかり調べることで本質が分かり、自分の意見ができきてきます。(中2石井瑛美)
渡部さんから、ノルウェーのことについても興味深く聞きました。オスロの国会議員は日本とは違い、女性と男性の割合は半々だそうです。ノルウェーは、ジェンダーギャップ指数が世界3位ですが、日本は118位という大きな違いに私はモヤモヤしました。SDGs17の目標の中の5番目に、「ジェンダー平等を実現しよう」という項目があるのにもかかわらずです。今の日本は、本当に平和といえるのかなと思います。例えば、体育の授業では男子と女子が完全に分かれ全く別のことをします。私はピアノを習っていますが、ピアノを弾くと「男の子なのにすごいね」と言われます。テレビや新聞を見ても、政治家や会社の社長は男性ばかりです。なぜなのでしょうか。取材内容とは少し話がずれてしまいましたが、ジェンダーにまつわる様々な社会問題が、平和や私たちの生活を入り込んでいると考えました。(中1岡本龍之介)
渡部さんを取材して、印象に残ったことがあります。 それは、今回、日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのは、世界各地で戦争や紛争が起きているからこそのことであり、受賞を素直に喜ぶことはできないということです。確かに、世界で争いが起きなければ、被団協は受賞しなかったかもしれません。このことを踏まえて、僕は、被団協などの団体や人が活動をしなくても世界の平和が保たれることが本当の平和というのだと考えます。 (中1森本希承)