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黒い雨 援護信じる 原告団 「被爆者」として初の8・6 慰霊碑へ報告

 「被爆者」として初めてこの日の朝を迎えた。「ようやく報われたよ」。原爆投下後に降った「黒い雨」を巡る訴訟の原告は6日、被爆者健康手帳の交付を認めた7月29日の広島地裁判決を胸に、祈りをささげた。国が控訴を断念し、援護対象外に置かれた原告たちの「空白」が終わることを信じている。(松本輝、山崎雄一)

 午前8時15分。高野正明原告団長(82)=広島市佐伯区=は中区での平和記念式典に参列。原爆慰霊碑へ頭を下げると、これまでの活動が脳裏によみがえった。その横で高東征二さん(79)=佐伯区=は平和宣言を読み上げる松井一実市長を直視した。「黒い雨降雨地域の拡大に向けた政治判断を改めて強く求めます」。その瞬間、深くうなずいた。

 黒い雨に遭った人の援護対象区域として国は1976年に「大雨地域」を指定した。2年後、区域外の住民が協議会を設立し、高野団長も参加。国に区域拡大を求める活動を引っ張ってきた。区域を見直そうとしない国にしびれを切らし、2015~18年に集団で提訴。地裁判決は、黒い雨は大雨地域より広範囲に降ったと認め、原告84人全員が被爆者に当たると判断した。

 式典後、高野団長は「やっとこの場で報告できた。長かった」とほほ笑んだ。一方で提訴後に原告16人が他界した。式典であいさつを述べた安倍晋三首相から「政治判断」は聞かれなかった。「私たちも体力的に限界がある。国は判決を真摯(しんし)に受け止めて」。2人は思いを重ねた。

 式典会場から約18キロの佐伯区湯来町。式典が終わった午前8時50分、原告の本毛稔さん(80)は自宅でテレビを消すと、窓の外を見た。「ちょうど今くらいの時間じゃないか。黒い雨が降ってきたのは」

 当時は5歳。この地で弟昭雄さん=当時(2)=と雨に打たれた。昭雄さんは日に日に体調を崩し、翌月に肝硬変で亡くなった。自身も20代半ばまで原因不明の鼻血に悩まされた。

 自宅前の川が「大雨地域」の境界で、自宅はその外だった。健康診断などの国の援護策は受けられず、悔しい思いをしてきた。「『被爆者』と認められるまで75年かかった。核兵器の恐ろしさはそういうところにもある。国は私たちのように苦しむ人を二度と生まないよう廃絶を目指す旗振り役になってほしい」。その一歩として、国の控訴断念を静かに待っている。

(2020年8月7日朝刊掲載)

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