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[ヒロシマの空白 被爆75年] 世代超え 向き合う 安佐北区の山根さん「痛み 思い返す日に」

亡き兄の弁当箱 捜し歩いた母の日記…

 75年前、米軍が広島に落とした1発の原爆に焼かれた少年の弁当箱が残されていた。その少年を捜し歩いた母の日記が今年7月に見つかった。わが子を見つけられず黒焦げの弁当箱だけを持ち帰り、原爆投下の10年後に亡くなった母。残された家族は今、母の深い悲しみと、家族史に刻まれた原爆の傷痕に向き合っている。(明知隼二)

 弁当箱の持ち主は県立広島工業学校(県工、現県立広島工業高)1年だった山根秀雄さん=当時(12)。「あの日の朝、兄はこの道を何度も振り返りながら歩いていった」。妹の芳枝さん(86)=広島市安佐北区白木町=は6日、自宅から近くの駅へと続く道を指した。

 秀雄さんは75年前のこの日、中島新町(現中区)での建物疎開作業のため白木町の自宅を予定より早く出発し、戻らなかった。

 「列車ノ度毎(たびごと)、走(は)セツケタガ秀雄ノ姿ハ求メラレヌ」(1945年8月6日、引用は全て原文のまま)

 母初恵さん(55年に43歳で死去)の日記は、営んでいた酒造店の請求書をノート代わりに45年8月5日から46年3月31日まで残る。芸備線でけが人が次々と運ばれてくる中、初恵さんは7日、列車で見つけた県工2年生から「一年ハ全滅」と聞き、たまらず市内へと向かう。

 連日、早朝に出発し、暗くなるまで救護所や病院を訪ね歩いた。似島や廿日市も訪れ、列車の切符が入手できなければ無賃で乗り込んだ。「何一ツ手ガカリ無シ」(7日)「死亡帳及(および)生存患者両方ニナシ」(10日)「秀雄ノ姿ハ求メルコトガ出来(でき)ナカツタ」(11日)「帳簿ニナシ」(12日)

 13日、焼け跡で秀雄さんの弁当箱を見つける。県工1年生の作業現場の近くを「セメテアノ子ノ思出(おもいで)ニ」と歩いていた時だった。「秀雄ノ辨(べん)当箱ガ佐古君ノト重ネテアツタ。スイ附(つ)ク様(よう)ニシテ手ニ取リ中ヲシラベタ」

 端がねじ切れ、黒焦げの中身が残る弁当箱。あの朝、初恵さんが卵焼きやホウレンソウのあえ物を詰めた。雑穀が目立つ他の弁当と比べて「スグニ判別シタ」。初恵さんはそれを持ち帰り、仏壇に収めた。

 日記には、時とともに募る悲しみも刻まれていた。「母ト子ノ霊ハ一日々々遠クナツテ段々(だんだん)追イテ行カレル気ガシテ淋(さび)シイ」(11月13日)

 「母は毎日のように涙していた」と芳枝さん。被爆から10年後、肺を患い、亡くなった。「被爆による病ではなかったか」と今も思う。

 弁当箱は芳枝さんが引き継いだ。3年前に同居を始めた孫の雄介さん(35)の勧めもあり、昨秋に原爆資料館(中区)に寄せた。

 初恵さんの身の回りの品は当時、肺の病の感染を恐れてか全て焼却されたという。それが先月、偶然日記が見つかった。店の帳簿類の中に紛れていた。読んでほしかったのだろうか―。雄介さんたちは、日記だけは家族の記録として手元に残すことにした。

 「十三年前、オ前(秀雄さん)ニ乳房ヲフクメテ横ニナツタ母ノ希望ニ満チタ姿ヲ想出(おもいだ)シ タマラナクナリマシタ」(11月13日)

 3月に長女が生まれた雄介さんは、この一文の重みを実感する。「これからは8月6日を家族の痛みを思い返す日にしたい」。家族が受け継ぐ被爆の記憶は、ヒロシマの「空白」を埋める断片でもある。

(2020年8月7日朝刊掲載)

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