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希望つなぐ 原爆を学び 自ら考え 行動する 広島大生 学生版の平和宣言発表

「困難や差別に直面しても、若者には世界を変える力がある」

 原爆投下から75年となった6日、広島市内は犠牲者を悼む市民たちの祈りに包まれた。「あの日」の惨禍を繰り返さない―。被爆者の高齢化が進む中、次代を担う若者たちは記憶の継承を誓った。各追悼行事は新型コロナウイルスの感染状況を踏まえて規模が縮小されるなどしたが、参列者は平和への願いを新たにした。

 若者が、被爆者の伝えてきた言葉の意味をかみしめ、次世代につなぐ―。そんな平和構築への決意と提言を示した「学生ヒロシマ宣言」を6日、広島大の学生グループが発表した。広島市中区の東千田キャンパスで大学関係者に日本語と英語で披露し、様子を撮影した動画をインターネットで発信した。

 被爆75年の節目に同大が企画した。公募に応じた6カ国12人が、計15時間にわたる討議を重ねて集約。米国出身の大学院生で、リーダーを務めたアルビン・コイコイ・ジュニアさん(26)が日本語で読み上げた。

 被爆者の高齢化、核廃絶へ向けた動きの停滞、国際的な緊張関係…。宣言は仲間との議論で浮かんだ平和な世界づくりに向けた課題を指摘した上で、「私たちにできることは、被爆者の語る原爆被害の恐ろしさを学び、若者自ら考え、行動すること」とうたう。また、コロナ禍などの社会課題にも言及し「どんな困難や差別に直面しても、若者には世界を変える力があります」と結んだ。

 宣言書を受け取った越智光夫学長は「世界平和の実現に向け、力強いメッセージになる」と拍手を送った。動画は当面、同大ホームページに掲載する。

 英語で読んだ副リーダーで総合科学部3年神田実鈴さん(20)は「出身地や考えの異なる12人の議論そのものが、互いを尊重し、平和を目指す第一歩だった」と振り返り、「私たちと同世代が主体的に、自分事として、平和について考えるきっかけにしてほしい」と願っていた。(奥田美奈子)

各地で慰霊祭

仕切りの外から遺族ら見守り/友人の声 夢で聞こえる

「勉強せえよ」と言い残した兄/生き残って申し訳ない

  ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 広島戦災供養会が原爆供養塔前で開き、役員たち約20人が参列した。新型コロナ対策として、遺族や一般参列者は仕切られたロープの外から見守った。舟入川口町(現中区)で建物疎開中だった祖母と県職員の父を亡くした山本浩子さん(78)=廿日市市=は行事終了後、塔に献花。「2人の行方はまだ分からない。コロナ禍の今こそ足元の平和を見つめ直さないと」と語り、静かに手を合わせた。

  ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県職員や遺族たち146人が県庁跡近くの慰霊碑前で、犠牲者1142人を悼んだ。安佐北区の荒川忠臣さん(80)は父連市さん=当時(55)=をしのび、毎年訪れている。本川小で防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆し、亡くなったとみられる。遺骨は今も見つかっていない。「父の記憶はぼんやりとしかない。命を奪う原爆は絶対にあってはならない」と強調し、白い菊の花を手向けた。

  ◆広島女子高等師範学校、付属山中高等女学校、県立第二高等女学校合同慰霊祭(中区国泰寺町)
 荒神堂境内の慰霊碑前に遺族たち約50人が集まった。当時、県立第二高等女学校2年だった関千枝子さん(88)=東京都品川区=は、雑魚場町(現国泰寺町)で建物疎開中だった多くの級友を原爆で亡くした。碑に花を手向けた関さんは「75年たった今でも友人の声が夢で聞こえる。『原爆は要らない』というのは被爆者全員の思い。生きている間に核兵器廃絶を実現してほしい」と願っていた。

  ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 慰霊碑のある多聞院に職員や遺族約70人が参列。読経の後に全員が焼香し、288人の殉職者を追悼した。中村久美子さん(84)=東区=は、学徒動員の引率者として爆心地そばの郵便局へ電車で移動中だった父龍花積穂さん=当時(42)=を亡くした。中村さんは当時9歳。「爆風で割れたガラスが頭に刺さった父を看護したが、10日後に亡くなった。子どもの成長を見たかっただろうに」

  ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員たち約70人が、慰霊碑に祈りをささげた。安佐南区の沢井剛さん(87)は原爆投下後、父寅一さん=当時(55)=を捜すため、伯父と共に大手町(現中区)の父の職場まで行き、ベルトのバックルを頼りに遺骨を持って帰った。「父は朝早くから夜遅くまで働き、あまり話をすることはなかった。口数の少ない人だったが原爆がなければもっと話ができただろう」と悔やんだ。

  ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑前で、遺族や中国地方整備局の職員計約20人が黙とうした。南区の森朝子さん(81)は、兄の植田英男さん=当時(18)=が小網町(現中区)で被爆。全身にやけどを負い、牛田(現東区)の自宅にたどり着いた途端に倒れたという。「キュウリの汁を付けてあげることしかできなかった。『しっかり勉強せえよ』と言い残し、息を引き取った姿が忘れられない」と語った。

  ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 病院の幹部職員たち10人が慰霊碑に献花し、黙とうした。あいさつした古川善也院長(65)は「被爆者の高齢化とともに(後遺症などの)疾患は(多様に)変化している」と被爆者の状況を説明した。例年240人が集うが、今年は規模を大幅に縮小。母が入市被爆者の古川院長は「感染症対策をしながら、広島にいてこそ伝えられる平和への思いをどう受け継いでいくか、考え続けたい」と語った。

  ◆日本損害保険協会中国支部「友愛の碑」慰霊祭(中区中島町)
 平和大通り南側の緑地帯にある碑の前に、損害保険会社などの社員約30人が集まり、犠牲となった89人に祈りをささげた。10社の代表が献花し、原爆投下時刻の午前8時15分に全員で黙とう。同支部の松田誠太委員長(57)は「先輩たちのみ霊に対し、業界の使命である安全・安心の役割を果たしていくと報告した。記憶を風化させないために、若い世代へしっかり伝えてきたい」と話した。

  ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(中区中島町)
 市立造船工業学校の生徒遺族や、流れをくむ市立広島商業高の生徒約40人が参列。当時、造船工業学校1年だった森本啓稔さん(88)=中区=は、中島新町(現中区)などで建物疎開中だった同級生の大半を失った。自身は西高屋村(現東広島市)の親戚の家にいて被爆を免れ「生き残って申し訳ない思いが消えない」。数年前から当時の体験の講演を始めた。「原爆の恐ろしさを伝えたい」と誓った。

  ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 広島市地域女性団体連絡協議会の8人が千羽鶴と花束を手向け、黙とうした。今年は母子像の建立から60年の節目だが、コロナ禍の中で参列者を役員に限定した。例年実施している「原爆を許すまじ」の合唱も控えた。「心の中で歌い、核兵器廃絶への願いを込めた」と月村佳子会長(76)=西区。被爆直後の広島に医薬品を届けたスイス人医師マルセル・ジュノー博士の顕彰碑にも献花した。

  ◆広島大原爆死没者追悼式(中区東千田町)
 遺族や大学関係者約40人が、追悼碑に花と水をささげた。遺族代表の奥田美智子さん(62)=京都市=は、父が千田町(現中区)にあった広島工業専門学校(現広島大工学部)の授業中に19歳で被爆した。80歳で亡くなるまで被爆体験を語ろうとはしなかった姿に思いをはせ、「想像を絶する体験だったのだろう。残された写真や手帳から、父の思いや原爆について考えていきたい」と声を震わせた。

  ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 「戦争のためにペンを、カメラをとらない、輪転機を回さない」。今夏、新たな説明板が加わった碑は新聞・通信7社の犠牲者133人の名を刻む。碑前には遺族たち14人が集った。元中国新聞社社員の北山更路さん(84)=南区=は、同社義勇隊として旧県庁近くへ建物疎開作業に出た父を失った。原爆投下前日に疎開先で会ったのが最後に。「こんな思いを誰にもさせてはいけない」と願った。

(2020年8月7日朝刊掲載)

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