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社説・コラム

『潮流』 みんな無口だった

■特別編集委員 江種則貴

 生まれて初めてセミの脱皮を目撃したのは25年前のこと。8月6日未明、広島市中区の平和記念公園だった。せみ時雨は夜中でも降り注ぐと知ったのも、この時だった。

 夕刊の発行がない日曜日。だが、被爆50年という節目の年。平和記念式典の様子などを伝える「特報」を出すことになり、後輩とともに公園の夜通しルポ担当に指名された。

 「数珠を握る手のしわが、五十年の歳月を物語る」。そんな書き出しの記事をあらためて読み返すと、記憶は鮮やかによみがえる。徹夜して眠かったが、取材はスムーズに運んだ。セミの様子も交え、一気に書き上げることができた。

 今と違って原爆慰霊碑への人波は夜中も途切れず、しかも思いの丈を話してくれる被爆者や遺族に出会えた。そのおかげだった。

 その後も「8・6ドキュメント」は7日付の朝刊紙面の一角を占める。紙面に収容しきれない分は中国新聞デジタルに載せる。

 今年のそれを読んで、お気付きだろうか。被爆者が1人しか登場しないことに。コロナ禍に見舞われたにせよ、これが被爆75年のヒロシマの現実なのである。

 だが、しみじみと思い出す。25年前のルポにしても被爆地の断片を切り取っただけ。当時、心も唇も固く閉ざし、何も語ろうとしない被爆者や遺族がいかに多かったことか。

 あの日、つぶれた家屋から漏れ出る声に耳をふさいで炎の中を逃げた人たち、建物疎開作業に駆り出されたわが子と二度と会えずにいる親たち、幼いうちに天涯孤独となって放逸な生き方しか選べなかった人たち…。体験を聞かせてもらっても、実名での紙面掲載や写真撮影となると断られるケースも少なくなかった。

 もっとつぶさにサイレントマジョリティーの声を記録できなかったものか。今更ながら後悔が募る。

(2020年8月8日朝刊掲載)

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