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呉の軍艦矢矧 悲劇を調査 スペイン風邪で乗員48人死亡 コロナと闘うヒント探る

海自幹部学校で戦史研究の本名さん

 約100年前、呉を母港とする軍艦矢矧(やはぎ)がインフルエンザ「スペイン風邪」の世界的流行に巻き込まれた悲劇から、新型コロナウイルスに立ち向かうヒントが得られないか―。海上自衛隊幹部学校(東京)戦史統率研究室に所属する本名(ほんみょう)龍児さん(44)=1等海佐、広島市南区出身=が、そんな思いに駆られて調査研究を重ねている。同学校のホームページ(HP)で成果を次々と発信している。(道面雅量)

 「洋上での集団生活を基本とする海自の活動が、集団感染のリスクを抱え込んでいることは矢矧の時代と変わらない。『過去からの警鐘』を生かしたい」。研究の狙いを本名さんは端的に語る。

 矢矧は旧日本海軍初期の軽巡洋艦。1918(大正7)年秋にシンガポールに寄港した後、艦内でスペイン風邪の集団感染が起き、乗員の1割を超える48人が死亡する惨事を招いた。呉市上長迫町の長迫公園(旧呉海軍墓地)には殉職者の慰霊碑がある。

 本名さんは、春先から深刻さを増した新型コロナの感染拡大を受け、矢矧の悲劇に注目。感染状況が詳細につづられた戦時日誌や報告書、当時の新聞などを広範に調べ、7月までに3本の論考をHPで公開した。矢矧の悲劇後、海軍では、艦艇内の寝具だったハンモックを「頭足交互」につって飛沫(ひまつ)感染を抑えようとした史実などを掘り起こし、矢矧の艦長の指揮統率の検証や教訓化も試みている。

 長迫公園の慰霊碑についての調査も進めた。兵庫県在住の男性が会員制交流サイト(SNS)に投稿した情報を端緒に、同公園を管理する呉海軍墓地顕彰保存会の資料では「大正9年」とされてきた建立が実際は37(昭和12)年であることや、現在は欠落している碑の裏面の説明文も、新聞資料で確認した。

 本名さんは6月末、調査を兼ねて呉市を訪れ、慰霊碑に花を手向けた。「祖国を離れ、長い海上勤務のさなか、感染症で命を落とす。そのつらさはどれほどだったか」。敬礼の姿勢を取って殉職者を追悼した。今後、感染症対策の歴史について外国の海軍にも視野を広げるなど、研究を深めるつもりだ。

(2020年8月9日朝刊掲載)

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