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兄の弁当箱 毎夏に再会 神戸の竹田さん 捜索時の父の記憶語る

6年前から見学会開催

 広島二中(現観音高)1年生だった兄雅郎さんを原爆に奪われた竹田雅博さん(74)=神戸市=が7日、原爆資料館(中区)に足を運び、収蔵庫にある遺品の弁当箱と年1回の「再会」をした。6年前から毎年、広島で開かれる平和集会の場で出席者に声を掛け、見学会を開いている。(桑島美帆)

 焼け焦げたアルミ製の弁当箱と、米粒が混じった一握りの砂。関東や関西から訪れた7人を前に、竹田さんは「兄を捜し歩いた父によると、ふたに刻まれたササの葉の模様で分かったそうです。その場で砂を集め、遺骨代わりに持ち帰りました」と解説した。

 雅郎さんは、爆心地から約500メートルの本川沿いで建物疎開作業に出ていた。大やけどを負いながら同級生数人と逃げ、2日後に避難先で息を引き取ったとみられている。混乱の中で火葬されたためか、遺骨は見つからないままだ。

 竹田さんは原爆投下の翌月に生まれたため、兄に会ったことはない。「父は兄について語ろうとしませんでした」。遺品の弁当箱は、被爆50年だった1995年に父たちが原爆資料館に寄贈した。

 見学会で竹田さんは、遺品にまつわる家族の話や、建物疎開作業に出た二中生約320人が全滅したことも語った。子どもと参加した鴨下美和さん(50)=東京都=は「小さな弁当箱しか見つからず、土をかき集めた遺族の思いが伝わってくる」と言葉を詰まらせた。

 自ら開く見学会は、同館に眠る雅郎さんの遺品に光を当てる年に1回の機会。「できる限り続けたい。ただ体力的にはしんどくなった」。竹田さんの心は揺れるが「もっと生きるはずだった兄をはじめ、熱線、爆風、放射線にさらされて亡くなった生徒の苦しみを知ってほしい」という強い思いは変わらない。

(2020年8月9日朝刊掲載)

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