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社説・コラム

天風録 『暑さ子のゆきし日の暑さ』

 毎年この季節に「原爆句抄」という一冊をひもとく。著者は長崎の自由律俳人、松尾あつゆき。妻子4人を原爆に奪われた。〈なにもかもなくした手に四まいの爆死証明〉。漂う虚無感に言葉もない▲英語教師で、句は荻原井泉水(せいせんすい)に師事。子煩悩な父親でもあったろうに「笑うのを見たことがない」と孫に当たる人が回想する。生き残った者が笑って過ごすなんて…。そう自分に言い聞かせていたのか。何も知らぬ多くの子どもの犠牲を大人はよくよく考えよ、と自問してもいた▲きのう長崎市長が平和宣言で、やはり原爆に妻子を奪われた作曲家の手記を引く。毎年巡り来る8月9日は幻影のよみがえる日である、と▲〈子のほしがりし水を噴水として人が見る〉〈暑さ子のゆきし日の暑さとして耐えんとす〉。同じ季節に、あつゆきもまた亡き子の幻影を追う。一時勤務した長野県で被爆者の会を組織し、帰郷してはラジオ番組で語った。わが心にむち打つ思いで句をつくり、静かに原水爆を告発したその人も、とうにいない▲長崎の被爆者代表は89歳の信徒。被爆者健康手帳を持つ人の平均年齢は83歳を超す。皆さんの存命中に、この世界は核を手放せるのだろうか。

(2020年8月10日朝刊掲載)

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