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社説・コラム

『潮流』 かみしめる夏

■三次支局長 坂田一浩

 8月6日、庄原市の山内地区であった原爆犠牲者の慰霊祭を訪れた。山中にある慰霊碑への道を登ってゆく男性の後ろ姿が目に入った。「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」。思わず声を掛けた。

 男性は、かつて山内地区原爆被害者の会の副会長だった土井昭二さん(93)。「生きとるよ。長生きせんといけんね」。最後にお会いしたのが2005年。土井さんから再び原爆のこと、地域のことを聞いてみた。生き証人は、復習には最高の先生である。

 原爆投下後、山内地区には陸軍の臨時病棟が設置された。食料の提供や被爆者の身の回りの世話も含め、地域を挙げて救護に当たった歴史を持つ。鉄道で運ばれた274人を収容し、うち88人が死亡した。

 土井さんは広島市内の勤務先で被爆したが、大きなけがはなかった。数日後に実家のある山内に戻り、病棟で亡くなった「男女の区別もつかないような人」を山に担いで登っては、切り出した木で火葬にしたという。土井さんは山内の被爆者たちと、地域の歴史を残そうと被害者の会を2001年に結成。当時74歳だった土井さんを含め、主要メンバーは70歳前後。そこには使命感があった。

 臨時病棟の収容者のうち、所在が分かった唯一の生存者を大阪市に訪ねて証言を聞き、当時の看護師の体験談も聞いた。会は、04年までに被爆体験や救護体験などをまとめた冊子を3冊発行した。活動の高まりで、被爆者を運んだ列車の車掌も名乗り出た。会の活動なしには忘れ去られたはずの歴史だろう。

 「原爆はむごたらしいもんよ。平和でないといけん」。心の底から絞り出すような土井さんの言葉をかみしめている。自分自身も含め、後に続く世代が後を継ぐ世代になれるかどうか。自問ばかりで終わってはいられない。

(2020年8月11日朝刊掲載)

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