×

社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 中国に残された旧日本兵 国家はでっかい嘘をつく 映画監督 池谷薫さん

 75年前、日本の敗戦後も戦いを強いられた人たちがいた。武装解除されないまま中国に残り、国民党軍に合流して国共内戦を戦った旧日本兵たちだ。その1人を追ったドキュメンタリー映画「蟻(アリ)の兵隊」(2006年)の監督・池谷薫さん(61)は今夏、全国を回っている。「終戦の日」の15日には、自身の亡父が被爆した広島の地で、上映とトークに臨む。作品に込めた思いを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真も)

  ―旧日本軍の山西省残留問題を世に知らしめた映画です。
 敗戦時に山西省に駐屯していた旧日本兵約2600人が、所属する軍の命令で残留させられました。背景には、戦犯容疑から逃れようとした軍司令官と現地軍閥の間の密約があったとされます。国民党系軍閥の部隊として、中国共産党軍と4年近く死闘を繰り広げ、約550人が戦死しました。

 この映画の主人公、奥村和一(わいち)さんも残留させられた兵士の1人です。共産党軍の捕虜になった奥村さんが帰国できたのは1954年でした。ところが戦後の日本政府は「兵士らが志願して勝手に残った」として補償しませんでした。軍人恩給の支給を求めて係争中だった奥村さんと出会い、真相解明に懸ける姿を追いました。

  ―なぜことし再上映を。
 戦後75年の節目ということもありますが、一番の理由は国家に捨てられた「蟻の兵隊」と現在が二重写しになったからです。「国家はでっかい嘘(うそ)をつく」というこの作品が語る教訓を今こそ伝えねばと思いました。

  ―どういうことですか。
 森友学園問題で公文書の改ざんを強いられ、命を絶った近畿財務局職員の赤木俊夫さんの妻雅子さんが国などを提訴しました。奥村さんの姿と重なりました。どちらも国家に対する個人の尊厳をかけた闘いだからです。今、都合の悪い歴史を直視しない人たちの声も大きくなっています。いつか来た戦争への道を、またたどってしまうのではと危惧しています。

  ―映画は奥村さんの目線から戦争の不条理を描いています。
 上官の命令で終戦後も戦争を続けるという苦痛を味わった奥村さんは、紛れもなく戦争の被害者です。しかし真相を求めて山西省に渡った奥村さんは、己の戦争と向き合えば向き合うほど加害者だった自分から逃れられなくなっていきました。

  ―かつての戦地で記憶をたどるシーンは象徴的ですね。
 終戦間際、奥村さんは「初年兵教育」として、何の罪もない中国人を銃剣で刺し殺すよう命じられたそうです。奥村さんの手には、銃剣が相手の心臓にすっと入っていく感触が残っていたといいます。私はそれを「戦争の手触り」と呼んでいます。

  ―「手触り」ですか。
 つまり実感です。奥村さんの体内には無数の砲弾の破片が残っていました。奥村さんのように実際に弾の下をくぐり抜けた元兵士たちは歳月とともにどんどんいなくなる。映画に登場する元残留兵は奥村さんをはじめ皆亡くなりました。「戦争の手触り」を私たちが受け止め、伝えていかねばなりません。

  ―被爆体験を語らなかった父親に奥村さんを重ねたとか。
 奥村さんと同世代のおやじは旧海軍の技術将校で、広島の爆心地から1・4キロの寮で被爆したそうです。しかしその事実は隠していました。被爆者だと初めて聞いたのは、私が18歳の時。なんでそんな大切なことを早く言わないんだと激しく責めました。でも結局、詳しくは語らないまま亡くなりました。聞けなかった後悔もあり、戦争体験がある人にはもっと聞かせてほしいと強く思います。奥村さんにはおやじの代わりになってもらったようなものです。

  ―戦後75年が過ぎ、これから何ができるでしょう。
 奥村さんはどこにでもいる普通のおじいちゃん。特別な人ではありません。奥村さんのような戦争体験者が今ならまだ周りにいます。戦地に赴いてなくても銃後にいた人にはその人なりの体験があるでしょう。親や祖父母、近所の人、戦争を体験した人と過ごした人。そんな自分につながる戦争を私たちは聞いておくべきです。私自身は映像を通じ「手触り」を伝え続けることが使命と考えています。

いけや・かおる
 58年東京都生まれ。同志社大卒。人間の尊厳を主題に多くのテレビドキュメンタリーを手掛ける。02年「延安の娘」で映画監督デビュー。「蟻の兵隊」で香港国際映画祭人道に関する優秀映画賞、「先祖になる」でベルリン国際映画祭エキュメニカル賞特別賞。17年から甲南女子大教授。映画制作や映画論を教える。神戸市在住。

■取材を終えて
 戦争体験のない世代がいかに「記憶」を受け継ぐか。歳月を思えば、直接聞くことに時間的猶予はない。誰にでも「自分につながる戦争」はあるはずだ。池谷さんの言葉にヒントを得た気がした。

(2020年8月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ