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社説・コラム

『記者縦横』 「広島を訪れる」の意味

■報道センター社会担当 明知隼二

 「広島を訪れる」とは何だろうか―。この夏、新型コロナウイルスの影響で閑散とした広島の光景を眺めながら、そんな雲をつかむような問いが何度も頭をよぎった。8月6日朝にも平和記念式典の会場周辺を歩き、人の少なさにやはり同じことを考えた。

 新型コロナによる移動の自粛が本格化する前、原爆資料館(広島市中区)には年間170万人もの人が国内外から訪れていた。被爆者の遺品を見学し、証言を聞き、そこで感じたことをそれぞれの日常に持ち帰ったのだろう。今、そうした往来は大きく減った。

 それを補うように盛り上がりを見せているのが、オンラインでの取り組みだ。ウェブ会議の仕組みを使った被爆証言やシンポジウムのほか、資料館内を解説しながら歩く様子を動画で中継する意欲的な試みもあった。技術を活用すれば、顔を見ながら語り合うことも、資料館を「歩く」こともできてしまうのだ。

 それでもなお、画面越しでは伝えきれない何かがあると、誰もが思う。夏の日差しの下で広島の街を歩き、被爆建物を眺め、ときに被爆者と空間をともにする。たったそれだけのことが、やはり特別なのだ。

 昨年取材した米国の9・11記念博物館の関係者は、歴史的な事件の現場は「場所の力」を持つと語った。「広島を訪れ、被爆の実態を知る」と当たり前に語られる。しかし旅行者の姿が消えた被爆地の光景は、そんな言葉の意味を改めて考え抜くよう、迫っている。

(2020年8月14日朝刊掲載)

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