[無言の証人] 木綿のシャツ
20年8月24日
肩や脇腹に血の染み
左そでは半分破れ、所々に穴が開いている。顔のやけどは特にひどかったという=2002年、堂黒みどりさん寄贈(撮影・高橋洋史)
茶色く変色した木綿のシャツは、肩や左脇腹の辺りに血の染みが黒く残る。広島大工学部の前身、広島工業専門学校の生徒だった堂黒勉さんが「あの日」着ていた。脱がせる際にはさみを入れた跡なのか、一部は切り取られている。
当時20歳。学徒動員先の工場に向かう途中、爆心地から1・2キロの鷹野橋(現広島市中区)のバス停で被爆した。家に戻らない長男を捜すため、両親は市内を歩き回った。8月10日、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)にいた勉さんを見つけ、落合村(現安佐北区)の自宅に連れ帰った。
6日は、学徒動員の休息日だった。だが勉さんは、そのことを知らずに弁当をこしらえた母親を気遣い、作業に出たという。「人相が分からないほど」のやけどで全身の皮がむけ、耳も失っていた。「こんなに顔が焼けたんじゃ、遊びにも行けなくなった」と語ったという。姉のみどりさんたち家族にみとられ、8月27日に息を引き取った。
みどりさんは2002年8月、弟の遺品のシャツを学生服とズボン、靴とともに原爆資料館に寄贈。生前の勉さんの写真アルバムも、データ化して提供した。死の3カ月前に撮影された1枚には、白衣姿で笑みを浮かべる勉さんが写る。どんな未来を、胸に描いていたのだろう。原爆にすべてを奪われた。(新山京子)
(2020年8月24日朝刊掲載)