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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 佐田尾信作 海軍中尉小島清文の闘い

「降りる勇気」いつの時代も

 「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い犠牲の上に築かれたものである」。全国戦没者追悼式。首相安倍晋三の式辞の一節である。だが、それほどの犠牲を払わせたのは誰か。その疑問への答えは式辞にはない。

 ほんの少し前までは、先の戦争で国家が犯した罪を厳しく問う当事者たちが少なからずいた。その一人が2002年に82歳で死去した浜田市の小島清文。不戦兵士の会を創設し「投降」(光人社NF文庫)という手記がある。その書名が小島の数奇な運命を端的に伝えている。

 1945年4月、戦艦大和の暗号士だった海軍中尉小島は転戦したフィリピン・ルソン島の密林を敗走していた。米軍の砲撃の中、飢えや疫病に苦しむ兵たち。食う物はもはや「パパイアの根っこの雑炊」ぐらいしかない。小隊長だった小島は投降を決断する。捕虜になっても100%助かる確証はなかったものの、このままでもどうせ死ぬんだと、懸命に自分で自分を納得させた。

 筆者は99年に病床の小島に話を聞いている。東京生まれの慶応ボーイらしいべらんめえ口調だが、彼の国家観を如実に物語っている。

 ≪フィリピンではもう、自分を守るのは自分しかいねえじゃねえか。国家って一体何だい、って思った。一人ひとりが集まって国家になるはずじゃねえのか≫

 投降は隊内の説得に始まる。それは穏便に済んだが、次は友軍やフィリピン民兵と遭遇しないことだ。裏切り者か、憎悪の対象か、いずれにせよ命はあるまい。必死で米軍を捜していると突然兵舎が現れ、朝のコーヒーを飲む衛兵を逆に驚かせてしまう。そこで捕まり、小島は日系2世の情報将校に尋問される。

 ところが彼は尋問もそこそこに、開戦後の米国内では日系人が収容所に送られたこと、忠誠心を示すために2世部隊が欧州戦線で戦っていることを明かした。意外にも自分の言葉を持つ彼との距離が、急に縮まったと小島は思った。同じ軍人でも人間性の違いを痛感したのだ。

 その後ハワイへ移送され、「負け組」の捕虜のチームで日本を早期に降伏させる工作に従事する。もはや勝ち戦を信じないという面々。7月に入って届いたポツダム宣言の文面を読み、これなら和平だと小島は確信したが、日本は受諾しない。「もう8月か、一体いつまで続くのだ」と焦っていると「ATOMIC BOMB」という新聞の超特大の見出しが目に飛び込んできた―。

 小島の決断は少なくとも部下を救った。だが、はるかに重い任にある者たちに「降りる勇気」がみじんもなかったことが、やりきれない。沖縄守備軍の司令官は「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と発して自決したが、まず米軍の掃討作戦におびえる県民を救うべきだった。原爆投下は許されないが、これも避けられた悲劇ではなかったか。

 終戦後も惨事は起きた。現在の高知県香南市にあった海軍特攻艇「震洋」の陣地では8月16日に命令を受けて出撃準備中、艇24隻に積んだ爆薬が誤って爆発、111人が犠牲になった。ルポ「黒潮の夏 最後の震洋特攻」(光人社)の著者林えいだいは、「戦後の戦死」でありながら誰一人責任を取らず、国の真相調査もなかったと指摘している。

 筆者は陸軍の特攻艇「四式連絡艇(通称マルレ)」の元隊員たちを取材したことがある。彼らは玄界灘の陣地から無事復員していた。生死は紙一重。軍部は「本土決戦」を叫んだが、もはや組織の体をなしていなかった。死なずに済んだ兵たちをも死に追いやったといえよう。

 小島は戦後、地域紙「石見タイムズ」の主筆として腕を振るった。民主主義の旗振り役といえるが、日本人の本質は変わっていない―と常に疑い、筆者にこう答えている。

 ≪敗戦で一夜で民主主義が生まれる訳がない。今は民主主義が後退しているんじゃなく地金が出てきたんだ≫

 国旗や国歌、靖国神社、安全保障などを巡り、納得できない逆流を小島は最期に見ただろう。その死から18年。あなたが心配したほど息苦しい国ではありませんよ―と今胸を張れるだろうか。(文中敬称略)

(2020年8月27日朝刊掲載)

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