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教員被爆手記 平和教材に 故尾形さん 深い傷負いながらも教育に情熱

子供たちに二度と戦争の憂き目を見せない様に

本川小 「まず教職員で共有」

 戦後に本川小(広島市中区)などの教員を務めた尾形静子さん(1971年に44歳で死去)が被爆5年後につづった手記が、本川小に寄せられた。「ピカがにくい」―。被爆から早い時期の生々しい記憶を基に、心身に深い傷を負った体験を通して戦争を繰り返してはならないと訴える。貴重な資料は、同小などが平和教育のために活用する。(水川恭輔)

 75年前、18歳の教員だった尾形さんは勤め先だった爆心地から約1・1キロの広瀬国民学校(現中区の広瀬小)で被爆した。手記は「原爆の思い出」と題され、400字詰めの原稿用紙27枚分。宿直のため学校に出た前日の記憶から始まり、翌朝に続く。

 「ラジオが何か云いだしたが、ききとれない。丁度その時どどん 『あっ』という強いショク(中略)何も見えない。身動が出来ない」。校舎の下敷きになり、ぬるぬるとした血がほおを伝う顔をはじめ、体中に傷を負った。

 次の日、父に助けられたが、市中心部にいた母は犠牲に。全身の傷のうみをガーゼで取るたびに、ガラスの破片がばらばらと落ち、顔の傷は手術しても元のように治らなかった。「早く母のいるところへ行きたいと思ったのも一度や二度ではなかった」

 一方で、顔の傷に引け目を感じながらも前を向く決意も記す。「知らぬ他人から笑われ、あざけられても教員であるが故に、次代を背負う七十名の子供と共に日々をたのしくくらすことが出来る」。そして「この子供たちに二度と戦争の憂き目を見せない様にひたすら念願するのみです」。

 尾形さんは、被爆の記憶の継承のため69年に結成された「広島県原爆被爆教師の会」にも加わったが、がんを患い、若くして亡くなった。手記は本川小の元校長が知人の家族から託され、6月に同小に届けた。

 岡田由佳校長は「顔にけがを負って生きるのが嫌とも思いながら、子どもを育てることに幸せを感じた尾形先生の思いに触れ、胸がいっぱいになった。まずは教職員で手記を共有し、児童にも伝えたい」と話す。広瀬小にも手記の存在を伝え、今月中旬には両校の校長が集まって活用を検討した。

 尾形さんが手記をつづった50年には、市が初めて募った「原爆体験記」にも応募しており、市公文書館(中区)に当時の原稿が残る。今回の手記はより枚数が多く内容が詳しい。原本は原爆資料館(中区)で保存し、学校には複製を置く。

(2020年8月28日朝刊掲載)

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